電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ナチスはドキュン

自分自身の怠惰と無能もあるが、長期不況の影響もあって相変わらず職にあぶれたままでいる。そんな状態で目につくニュースはといえば、景気の悪い話か、そんな一方で何やらおいしい思いをしている連中の話だ。
くそったれが、俺がこの一、二年こうしてた間に、高学歴イケイケモテモテを笠に着たスーパーフリーの連中は女こましまくって、りそな銀行重役は経営危機を隠蔽したまま涼しい顔でうまい物食って、不況下盛況な高利貸しの元締め武富士の会長はウハウハの生活をしてたんだろうな、畜生、そんな奴らはガス室送りだコノ野郎……とか、そんなことばかり考える(が、すぐ忘れて晩のおかずのことなど考える)

――と、そんな自分を振り返り、なんのこっちゃ、これは多分、ヴァイマル時代のドイツで、学歴も職能もなく、職にあぶれて裕福でモテる連中を妬んで「ユダヤ人氏ね」とか言ってた初期ナチスの連中と変わらんのではないか? などと思ってみたりする。
今の日本には、潜在的には、そんなわたしと同じよーな20代〜40代男はごろごろいるんじゃないか。

10月の日記にも書いたが、昨今の日本の状況にはナチス前夜のドイツを思わせる雰囲気があるなあ、と最近痛感する。
しかし急いで付け加えるが「今の日本はファシズム前夜に似ている」というのは、70年代からこっち、単純な左翼が何とかの一つ覚えのように繰り返してきたお題目でもある。
では逆に、そういう「いつか来た道」論が繰り返されつつ、そう単純に世がファシズム一色にもならないのはなぜだろうか? つまり1920〜30年代と今が違う点は何かだ。

駅前のディスカウント系激安スーパーに行くと、カップラーメンが一個69円とか、中国産のにんにくの茎(スアンミョウ)が一束39円とかいう値段で売ってる。デフレスパイラルとは言え、果してこんな価格で採算が取れるのか? と思うが、それでも経済は回っているらしい。

戦前と今が違うのは、圧倒的な消費物の大量生産の普及と、国境を越えた流通網、情報網インフラの発達ということなのだろう。
よもや1930年代に、肉から野菜から加工品まで、自国生産品より輸入品の食品の方が圧倒的に安く大量に手に入る状況なんて想像できたろうか?

かつては、資本主義産業社会の発達が貧富の差を広げると思われていた。が、実際には、資本主義産業社会の発達が行き着くと、誰もが安価に大量の商品を入手できるようになり、雰囲気としてあんまり豊かとは言えないが、そうそう生活に困ることもあり得ない世の中になる、ということらしい。

「なんだ、工業をバカにするのか? 集中する資産を、工業の発展が分散させたんだ」(『王立宇宙軍 オネアミスの翼宇宙旅行協会グノォム博士の台詞)

かくしてモノが溢れたことによって社会の不満は紛らわされているらしい、わたし自身も。
そういった意味ではわたしも資本主義に感謝する部分はある。が、それに溺れてモノのありがたみを忘れるのには注意しないとなあ、とか、この過程が作られるまでに相当の歳月と先人の血と汗があったことも忘れてはならんのだろうなあ、とか時々思ってみたりする。