電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

この際ハッキリ言っとくが、

わたしは差別者主義である、例えば、自分自身白人社会の落ちこぼれのくせに有色人種にしか強がれないネオナチやKKKとかは、いくらでも差別してやりたいと思っている――
――と、以前某所で発言したら「差別者への差別は差別にならない」という言葉を返されたが、いや、わたしは自分が正義だなどとは思ってないぜ、好きで楽しくて差別しているのだ、ただ、その対象が違うというだけで、ネオナチやKKKと変わらんのだ。
で、ネオナチやKKKの主張も、彼らをこそ差別するわたしの主張も並べて垂れ流して、世間に評価させれば良い、と思っている。
かつて浅羽通明氏は『ゴーマニズム宣言』の中で「差別表現は悪人の自白だ」と発言していた。極論すれば、差別発言を取り締まるより、言論の自由市場にさらして、それを見る人間の客観的判断に委ねれば、いくらなんでも品性に劣る発言は、自然と淘汰される筈だ、という発想である。
いくら一面では正当性のある主張でも、不自然で偏ったものは長期的には定着しない。
例えば、旧共産圏では50年近くも私有財産は悪であるというタテマエを教育してたが、個人の財産を増やしたいという、人としてごく自然の欲求を滅ぼすことはできなかった。
また、痴漢やセクハラやレイプやストーカーがけしからんというのは、性搾取だの男根原理がどうのという難しいフェミニズムの本など読んでない人にも「常識」として定着している。
世間最大公約数の「常識」は最終的には中立的なところへ行き着くと思いたい。自作自演の自画自賛を流布したり、それを指摘した人間に圧力をかけるような企業は、仮に裁判で勝てても、世間から相手にされなくなると信じたい。
――もっとも、かつての戦前のドイツのように民主的な自由競争で民意に任せて、選挙でファシストが政権を取ることもあるんだが……