電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

じゃあ、民間伝承の英雄に右も左もあるのか?

恐らく、紅衛兵たちは「水滸伝三国志は革命を肯定する文学か? いや保守反動帝国主義の文学か?」とか、くそ真面目に論争したことだろう……って、そんなもん、解釈次第では幾らでも、どっちとも言えてしまうだろう。
水滸伝の侠客義士たちは反権力のアウトローだが、実は選ばれし天の星たちである、関羽張飛も元は侠客義士だが、漢王朝の正統の血を引く劉備を立てるという儒教的価値観に従って行動している(ちなみに魯迅曹操を好意的に再評価してたそうだ)
フィル・ビリングスリー『匪賊』山田潤 訳(筑摩書房)では、とかく左翼系の学者は、支那の匪賊、馬賊を反権力の徒と解釈したがるが、実際のそうした緑林の侠客たちは、古風なタテ社会価値観だということをさらりと述べている。
(ちなみに、わたしは1949年以降の「中華人民共和国」のことは「中国」と書き、それ以前の清朝とか明とか唐とか漢をひっくるめて呼ぶときは「支那」が適切だろうと思っている。「中国四千年」は、「ロシア三百年」とは言えても「ソ連三百年」では変なのと同様に変な気がする。ただ「支那」は差別語だとは思わないが、それを不快に思うという人の前では"礼儀として"なるべく避け「中華」と言い換えるようにしようかと考えている)
落ちこぼれの筈の暴走族が、よく日の丸と特攻服を好むのは皆知ってることだろう。この辺については以前こちらで論じた。更に言えば、任侠右翼の構成員には実は被差別部落出身者や在日朝鮮韓国人が意外に多い、これは就職差別で堅気の職からあぶれて仕方なくそこへ流れ込む層があるからだ。アカデミックな裏づけがないと納得できない人は、網野善彦を読むことをお勧めする。