電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

しかし唐突だが、

上記のような廃人ライフをしてると、シロウトくさくも、ハレとケの区分の喪失、とかいう民俗学用語が頭をよぎる。
かつての、地域社会の眼というものがまっとうに生きてる時代には、いい歳して平日昼間から働かん男には、居場所は無かった筈だろう。んが、上記のような店に行けば簡単に群集に紛れることができる。日常と生産の空間というものがなくなり、世がおしなべて消費の空間であることに今さら誰も違和感持たなくなった、というのか……。
そう、昔は百貨店とか行くのって、休日の「イベント」だったんですよね。上流夫人が『今日は帝劇 明日は三越』とか言ってるのが庶民の憧れでさ。普段は地元の商店街の個人経営のお店で買い物して、たまーにちょっと都会のデパートとか量販店みたいな店に行くと、ちょっと非日常空間だったりする――
――とか、そんなことを書いてると、ただの田舎モノ丸出しのようだが、確か、荒俣宏『20世紀の妖怪の正体』でも、デパートという形態自体、フランス革命後、多様な商品の集積された非日常空間、一種の産業社会ユートピアの像という意味をもってたとかなんとか(ベンヤミンみてーな話だな)書いてあったから、あながち本質的に誤りではなかろう(てきとう)。
こんな生活送ってて良いのかと時々思うわけだが、自己正当化するわけではないけれど、わたしと同様の人間は少なくないだろうと感じる。
膨大な商品とその周りの群集に紛れていると、本質的な孤独も将来の不安も紛れてしまう(が、紛れるだけで解決はしない、先送りになるだけだ)
自転車の上で、意味なく「俺も『大地から切り離された民』だな」とか呟いてみる。