電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「自分」と「セカイ」の中間に何かあるだろ、さあ何だ?

ところで2004年の現在に生きる者として思うのは、さて先にあげた「全体小説」は、昨今の、いわゆる「セカイ系」と、どう違うのか? ということである。
そもそも近代文学というのは、ミもフタもない言い方をすると、学はあっても官吏や実業家にはなれず、現実の土着農村社会では「使えない、潰しのきかない」ボンクラ文学青年が、そんな自分でも世の中をわかった気になるためのツール、慰撫物という用途があった。「全体小説」というのは、まさにそのツールの最たる物だったとも言えるかも知れないわけで、そういう見方をすれば、今の「セカイ系」とも似ている部分はある。
が、はっきり明らかに違うのは、現代の「セカイ系」表現の多くは、自分個人の自意識の問題がそのまま一足飛びに世界の問題になってるが、かつての「全体小説」は、「世界」に行く前に、まず自分を取巻く「社会」が視野に入ってた点だ。
「社会」! ああ、しかし今となってはなんてダサイ言葉だろう。既に貧富の差はなくなり、都会も農村も変わらなくなり、冷戦体制も崩壊し、憂国サブカルチャーとなった現代、もっともカビの生えたキーワードである。んが、「社会」としか言いようがないのだ。