電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「全体小説」としてのミステリ

「全体小説」というのは、一つの作品の中に、天下国家やら哲学問答から下々の民草の日常やら情痴色恋沙汰まで、世界の縮図のよーな綜合的テーマをぶち込むタイプの文学作品で、ドストエフスキーの『悪霊』とか、埴谷雄高の『死零』とか、武田泰淳の『富士』とかが挙げられる(個人的には、高橋和巳の『邪宗門』も入れたい)。
で、高村によると、乱歩が日本の探偵小説(当時は「推理小説」ではなくこう呼ばれた)を確立させた、大正から昭和初期当時は、昔ながらの農村土着の地主だ小作人だの階層を一方に残しつつも、初めて産業社会、大衆社会というものが出現した時期で、当時の探偵小説は、物語中の犯罪事件を媒介に社会の縮図を描く、上は金持ちや政治家や警視総監から、下は無名の貧民までが登場するのがお決まりで、探偵小説はそうした時代の中で「活字も読む大衆」が自己の位置を確認するものとして読まれた一面がある、という。
なるほど、シャーロック・ホームズが典型ながら、かつて物語中の私立探偵というのは、地位や権威があるわけでもないのに博学で、上下の階層を自由に往来する人間として描かれるのが常だった。古典的なミステリでは、上流階級の金持ちの家の遺産相続絡みやら政治家と暗黒街のつながりやらで事件が起き、官吏である警察はその捜査に行き詰まり、なぜか上下の階層に広い人脈を持つ探偵が活躍、というのがお決まりでした。
(この古典パタンは、ミステリ読者である中間大衆の、庶民的な情痴金目当て犯罪のお話なんか面白くないが、「上流階級の人間には何か裏があるに違いない」という偏見的覗き見趣味に支えられてた一面もある、と教えてくれたのは浅羽通明氏でした)。
で、翻って高村女史、なぜ自分は警察小説、犯罪小説を書くのを当面やめたのかというと、産業社会が行き着き消費中心社会になり、犯罪の背景に社会の階層やら貧富の差やらが関係なくなり、警察の捜査もただ人海戦術で物証を挙げるしかやり方がなくなってる中、書きようがない、また最近流行りの酒鬼薔薇聖斗とかみたいなサイコ犯罪者の内面を勝手に創作するのには興味ない、ということらしい(立ち読みなんでかなり乱暴な要約)