電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

遂に人格とタテマエが一致しなかった元祖オタク

じつは、昨年になって、ふと図書館で、この原作の「征服者ロビュール」の新訳版の文庫を見つけて読んだのだが、上記の、空中船の艦長は暴力的狂信的平和主義者であるという設定はまったく出てこず、物語はただ、ふとしたいきさつで空中船に囚われた二人の気球乗りがロビュールに同道させられた末、空中船を破壊して脱出するだけで、拍子抜けしてしまった。
その続編の「世界の支配者」を読むと、こっちでは再び万能空中船を作ったロビュールの最後が描かれるが、いったいどういう経緯でそうなったのかも定かでないまま、とにかくロビュールは狂人であるとなっており、どうにも後味がしっくり来ない。
解説によると、ヴェルヌ自身が、「征服者ロビュール」執筆(1886年)から「世界の支配者」(1904年)の間に、人間不信に陥るような事件に巻き込まれて作風が変わったとのことだそうで、その陰鬱さはよく伝わったが、陰鬱さが作品の味には転じてないのが残念。
空想科学小説の父祖ヴェルヌは、若い頃、船乗りに憧れて家出したが親に連れ戻されて「今後僕は物語の中でだけ冒険の旅をします」と答えたとか、晩年は塔に籠もってたとか、まさに偉大なオタクの元祖でもあったわけだが、ついぞ個人としての人格と建前理念の進歩主義が、奇妙にちぐはぐのままだったのが物足りないところである。
で、映画の「空飛ぶ戦闘艦」の方は、ビデオが出てるのかどうかもわからないまま、一度新宿TSTAYAで「地底旅行」だの「タイム・マシン」(旧作)だのといった、クラシックSFのコーナーを丹念に探したが見当たらないので、やっぱ観られないかと思ってた。
ところが先日、その新宿TSTAYAで、なぜか俳優別の「チャールズ・ブロンソン」のコーナーにあるのを発見したのである。パッケージには、ブロンソンの男気と牧歌的空想科学を謳うような文言しかなく、空中船の艦長について、中学生当時のわたしの邪悪な情念をかきたてたマッドサイエンティスト的説明はなかった。
まあどうせ、「幻の作品」、開けてみれば枯尾花、とは思ったが、中学生当時のハートのまま30過ぎても半ひきこもり廃人の現状に相応しいような皮肉な思いもして、結局借りてきてしまった。