電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

なんか今更、週刊文春発禁の件

何を今頃、と言われそうだが、いや、あえてしばらく置いた方が冷静に考えられるんだよ――って、結局、当の週刊文春に載った、関川夏央の「田中真紀子の娘なんてわざわざ報じるまでもないどうでもよい問題じゃないか。別にだからと言って出版差し止めのような言論弾圧が良いとも思わないが」(要約)という意見にほぼ同感、という以上特にない。
ただ、これは田中真紀子だから出版差し止めなんて政治的圧力が掛けられたんであって、通常ありえないことだが、もし何の力もない一介の市井の無名人が同じように報道によるプライバシーの侵害を受けた場合は泣き寝入りじゃないのか? という論点は、不勉強なわたしが見る限り、語られていない気がする。
あと、福田和也は、欧米では元総理や元大統領の一族が公人とみなされその日常が報道されるのは当たり前、と書いてたけど、それはあちらには「社交界」とか、最近流行りの、いわゆる「セレブ」文化ってもんがあるからだと思うが、かつては日本にもそれに似たものがあったのに、戦後GHQに潰され、万人平等の建前になった経緯があるんだけどね。
とはいえ、芸人と同様、名前の知れた大物政治家ともなりゃプライバシーも今更くそもあるかよ、それが都合の悪い時だけ普通の市井人のように被害者ヅラして、市井人には使えない特権を行使するのはずるいんじゃない? という気もしないではない。
この問題の構造的背景には、言論の自由云々と同時に、戦後日本の大衆化による、プロ(政治家とか芸能人とかとにかく人から「見られる」側の人)とシロウト(市井の一般ピープル)の境界の感覚の曖昧化、ということがあるような気がする。