電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「正しい言論圧力」はありえるか?

ネット上で見つけた記事にこんなのがあった

グーグル、反ユダヤ論争に巻き込まれる - CNET Japan
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20065329,00.htm

ここで取り上げられている「Googleで"Jew"と検索したら反ユダヤのヘイト系サイトが筆頭に来たんで、それが検索筆頭に来ないよう工作してるユダヤ人団体」というのは、動機にはまったく同情するが、手段や方法論としては「Googleで自社名を検索したら悪徳商法マニアックスが筆頭に来たんで、それが検索筆頭に来ないよう工作した株式会社ウェディング」とまったく同じと言えば同じである。
わたしは、欧米でユダヤ人差別に執心な連中というのは、どうせうだつのあがらない落ちこぼれのくせに、そんな自分でもユダヤ人よりは偉いんだ、と、ユダヤ人相手にしか強がれ無いようなダサい奴、と決め付けてるんで、反ユダヤのヘイト系サイトなど頭からバカにしきっているが、彼らを圧力によってネットから排除することも、言論弾圧であることに変わりないことは認めざるを得ない。
逆に言えば、もし「言論の自由を認める」と言うなら、差別発言の自由、殺人や幼児虐待やレイプや麻薬を礼賛する発言の自由も認めなければおかしい。「言論の自由を認める。だだし差別的、暴力的な発言はNG」というのは、いくら人道的には同感できても、手続き論の原理からすれば矛盾なのだ。
それでもかつての時代には、手続き論を超えるものとしての「情」とかいうものが世の中には働いてて、それが、あまりにも悪辣すぎるものは、手続き論ではルールを守っていても世間的に非難を浴びた、逆に理不尽な判官びいきというものもあったわけだが、我々はそれをウヤムヤのうちに捨て去って、手続き論の時代に生きている。
ウ社批判が盛り上がった理由の一つには、Google八分をくらった悪マニBeyond氏個人への「同情」もあるだろうが、ミもフタもなく言って口さがないネット住人の攻撃意識を駆り立てたのは、Googleの検索結果の公正さが踏みにじられたという、手続き論でのルール違反への反感ではなかったか?
この際個人的見解をハッキリ言っておくが、わたしは株式会社ウェディングを批判するが、そこに世間一般的社会的正義があるから言ってるつもりは毛頭無い、わたし個人に関する限り、ネット世間で悪徳商法断定の決まったこいつらをいじめて貶すのが楽しいからやっているのだ。
わたしも人を踏みにじったり傷つけたり人権侵害するのが大好きなのだ、ただし相手は何でも良いわけではない、株式会社ウェディングならオッケー、と思っただけである。
この点ではわたしも、イラク人質三人を非難する人々と同じなのである。