電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

情の空洞化の持つ不気味さ

では、手続き論より情で動くというのは本来どういうものであったか?
かつて西郷隆盛は明治の初め、維新で没落した不平士族の不満のはけ口を作るため、征韓論を唱え、当時の韓国(朝鮮)との戦争の口実を作るために、自分が韓国に渡ってわざと討たれて犠牲になろうと言ってた。(まさに元祖自作自演だ!)(※解釈によるので保留とする)
結局、西郷の征韓論は維新直後の日本では時期尚早と却下され、下野した西郷は西南戦争を起こして政府への逆賊とされて滅ぶわけだが、死後にはむしろ英雄として尊敬されるようになっている。
ハッキリ言って、こんな例は通常他の国ではなかなかありえないと思う(笑)
日本人というのは良く悪くも平和的というか、馴れ合い的というか、動機や主張は何であれ、短期的には国利国益に反した人間も、結局同じ日本人なんだから、と言って、最終的には情と浪花節でウヤムヤの内に取り込んでしまう文化を持ってた(良い例が忠臣蔵。四十七士は大局的には江戸幕府への逆賊の筈なのに、直属主君への忠義ゆえ死後、武士の鑑とばかりに英雄に祭り上げられてしまった)
この流れで行くと、建国義勇軍国賊征伐隊の事件の時も、あれだけ北朝鮮叩きが盛り上がってたのだから、もっと「彼らは手段は間違っていたが志は正しかった」という同情の声が上がっても良さそうなものなのに、それをすっ飛ばしていきなり「いや朝鮮総連の自作自演だ」の大合唱だ。
今日、日本的な「情」が欠落してきているのは、むしろ保守陣営の方に見えてならない。
その背景にあるのは、日本的な「情」の成立の下部構造である地縁や血縁の土着的地域共同体意識の解体なんだろうなあ、と痛切に思う。
226事件や515事件が起きた時には、世間的には犯罪とされる行為であっても、その志を汲んで同情して減刑嘆願を唱えた人間が多く集まった。それを支えていたのは、旧軍の兵卒の多くは農家の次男坊三男坊で、在郷軍人会か地元利権と結びついてたり、旧軍が農村共同体と絡み付いていて、地元出身の軍人はとにかく擁護するという風潮があったからだろう。
こうした動きとイラク人質三人への非難の盛り上がりは、下からの翼賛ムードという点では一見同じでも、根本的に質が違うと感じている。「叩きへの便乗」を恥じる「礼節」がまったくないのだから。
そして、今たまたま自分の意見が「ネットの自発的群集心理」と合致してる人もまた、いつそれがリモコンを奪われた鉄人のように自分と敵対するものにならないという保証も無い。わたしはネット世間など信用し過ぎぬ方がよいと思っている。