電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

日本的世間は長なき世に転じられるか?

さて、そこで『ア』と『ナ』どちらも最終的に問題になるのは、「『日本的世間』との対峙」ってことなのかなあ、と。
確かに『ア』第四章、『ナ』第二章の両面から語られるように、土着の村の相互扶助とかは、日本的世間の(数少ない)美点とも言えるだろう(民俗学用語で「村八分」とは、正確には、土着の伝統的共同体で冠婚葬祭などの十種類のムラの付き合いのうち八つから除外する、ということは逆にいえば残りの二つ(確か死人が出た時だったと思うが失念)はちゃんと付き合うってことで、それが良くも悪くも昔ながらのムラ社会の「情」だった)。
『ナ』で「イエ社会」を論じた第九章では、結局、(特に戦後の)日本人のナショナリズムの基底は、天皇制でも他民族との生存闘争でもなく、武家社会で培われた、擬似家族的な地縁血縁共同体ではないか、ということになる。
この日本型オイエ共同体世間の特徴は、西欧キリスト教文化圏の唯一絶対神と個々人との垂直な契約の理念とも、支那儒教文化圏の家父長血縁主義徹底とも違い、オイエの一員と扱われさえすれば対等な、縦より横に広がったものであることらしい。が、その「オイエ」の外を見据えず、一社、一部書の社益、部署益のみを追及したグローバルな視点の欠落に陥りがちな欠点がある。
一方『ア』の第十章では笠井潔の「国家民営化論」が取り上げられるわけだが……わたしは私的個人的には、今の日本でアナルコ・キャピタリズムには懐疑的な部分がある。
戦後の高度経済成長で資本主義が高度に発達した結果、相対的に国家権力の力は弱まった、いっそ公共事業から危機管理まで民営で自己責任にしちまえばどうだ? その方がみんなこれまでのような受動的な大衆ではなく、いやでも自立した意識に目覚めるぞ――こう言われれば、まあ納得できなくはないしスリリングだ。
(『ナ』では小泉総理の対米従属政策に批判的とも見える浅羽氏が、『ア』では小泉構造改革の自由化路線には賛同的っぽいのは興味深い)
なんでも、無政府資本主義とも訳せるアナルコ・キャピタリズムは、マルクス主義と対になって生まれ発達したヨーロッパのアナキズム(仏のプルードン、露のバクーニンクロポトキンとか)と違い、アメリカ独自の思想だという……いや、そこなんだよ! アメリカは、歴史も土着の伝統共同体もない中、自己責任の自己防衛は当然、ワシントンDCの連邦政府なんかくそくらえ、という、西部南部の武装した開拓民が作ってきた国だ。「お上」に頼らないという覚悟が違う。土着の地縁血縁か或いは「お上」に守ってもらうを当然として生きてきた馴れ合い世間の日本人にそれが真似できるのか?