電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「見上げる物」と「連なる物」

両書には個人的に不足を感じる部分も幾つかあるけど、まあ、趣味の域を出ないかな……。
例えば『ナ』では、高学歴左翼インテリと異質な中卒自衛隊員出身の本宮ひろ志の大衆的ナショナリズムと反米意識に触れるなら、90年頃『大と大』で、イラクに赴いた主人公の前で労働者に混じって汗水流して働くフセインを描いたことに触れて欲しかったし、志賀重昂らの風景論、象徴としての富士山について触れるなら、矢作俊彦『あ・じゃぱん』で、社会主義政権となり天皇を失った東日本共和国の架空の田中角栄が、せめて富士山が残っていればと嘆いた台詞を引けば凄くよいのに、とか。
また『ア』第四章では、権藤成卿とか日本土着の農本コミューン主義志向を取り上げるなら、大逆事件連座して処刑された在野の医師大石誠之助(最晩年の中上健次紀州の同郷出身ということもあり着目していた)や僧侶の内山愚童を挙げても良かったんじゃないかな、彼らは西欧思想を輸入したインテリでない日本オリジナルの土着反体制知識人だったわけだから……って、そもそも彼らを大きく取り上げた書物が無いのか?
あと『ア』第八章で鶴見俊介ほかの、自発的に日本人を脱した越境者、コスモポリタン関連では、金子光晴を挙げてくれたのは渋いが、スペイン内戦に参加した日本人義勇兵ジャック白井を挙げても良かったかなあ、と(白井はアナではなく共産党寄りだったが)。
と、いうのは、『ア』第八章は「脱『世間』」という視点から、単に日本を脱するだけでなく本当にどこにも属さない単独者を目指した人間をもっぱら取り上げようとしてたようだが、白井のように「四海同胞」「海の向こうの同志との連帯」という思考が根底にあった人間も多かったと思う。かつて浅羽氏自身、法政大学の講義では、日露戦争中に日本の片山潜がロシアの社会主義者と会して、戦時下の敵国人同士ながら友誼を示した例を引いて「かつては左翼にも、国家を超える国際連帯という『公』意識があった」と語ってた。
そう、まったくどこにも属さない個人などという立場から己の正義や倫理を立ち上げるのは、よほど強い意志か能力のある自立した人間以外は難しい、ってゆうか、それ以前に、ほとんどの人間は、四海同胞世界の人民と連帯、とまで言わんでも、親兄弟に地元の地縁血縁やら職場の同僚やら何らかの他者あってのもんだから、やっぱどっか、自分以外の立脚する世間なり場なりは必要になる。