電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

馴れ合い便乗偽悪

先日の日記で、善意の差別家好青年(彼はその時ニコニコしながらチョンチョンと二度三度と連呼していた)について、そりゃただの偽悪でないかとの意見があったが、ふと思た。
戦後民主主義価値観を疑う頭のいっさい無い単純人権左翼には「無自覚な偽善」というのがよくあるが(当人は世のため人のため公的に良いことをやってるつもりで、要は自分が「よい人間である」という優越感の快楽のため、とか)、逆に「無自覚な偽悪」ってのもあるんじゃないか?と。
つまり、当人の主観では、そもそも当初は意識的な偽悪のポーズの筈だったが、それがまったく条件反射のように自動化してる、もう常に自己懐疑一切無しに真っ先に偽悪発言が出るようになってる、という状態ということだ。だとすればこれも「無自覚な偽善」と同様にたちが悪いのではないか。というのは、自分は一回転して敢えて意志的に悪をやってる、という自覚の無い偽悪では、現象面ではただの悪と変わらないからである。
偽悪とは本来「敢えて」する挑発的行為みたいな物のはずで、それは少々大それた言い方をすれば、本来、孤高の反世間的行為というものだった(平等や弱者へのいたわりを鼻であしらった元祖偽悪芸人の代表格たけしは、江戸っ子個人主義者である)。
件の青年は、勝手に一方的にわたしのことを、ノリが通じるお仲間と思ってくれてたようだが、そこには、ここでなら「言っちゃってオッケー」という場の前提に便乗しているような感じがある。こういうのは既に「敢えて」している偽悪とは何か違う気がする。