電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「情」の効用というか功罪

しかしだ、考えてみると、これは単に、本作品は単純な娯楽作品であるとか、劇中おげ丸というのが単純で情に篤いバカという設定になっている、という意味を超えて、案外、極限状況の人間心理としてこっちこそリアルなのかも知れない、とも思った。
いきなりえぐい告白をするが、数年前、わたしは、確実に人を一人殺せる機会があった。
その時その場所ではその人物と二人っきりで、証拠は残りそうにない、放っといても確実に死にそうに衰弱してたし、前後関係から事故処理扱いになるだろう。そして、その人物はもうかなり多くの人間に迷惑をかけており、正気だった頃の彼なら、生き恥さらさない方を選んでたことも確実だった。で、一瞬、真面目に考えてみると怖い考えが頭をよぎったわけである。が、結局わたしは実行しなかった。結果的に、その時は人間としての正気を保ったんだと思うが、なんで実行しなかったのか、本質的には、当時も今も明確には言えない。
つまるところ、当時その人物の周囲にいた人間が、それでも彼の延命を望んでいたから、その意志をむげにするのは人として忍びない、という「情」だったんだろうか……。
結局、おげ丸も、父の妾三人との逃避行の間自分が属している「世間」への「情」、こいつら見殺しにしたら今までの苦労が水の泡になる、という思いが、一個人の私的個人的な嫉妬や憎悪なんぞ消し飛ぶまでに大きく、それが結果として人間としての正気を保たせた、ということなのか?
最近、わたしのとある昔の年長の知人(――いや、むしろ恩義のある人物)が、どう考えても尊敬できない仕事に手を染めている。しかし、想像してみる、上記の話と同様、たぶん彼にとっては、現在彼がその仕事で所属している「世間」の存在が大きく、たとえ自分の仕事に疑問を持っても、自分がそれを放り出したら、一緒にやってる仲間の苦労が水の泡だ、それをむげにはできない、という思いでいるのかも知れない。少なくとも現在の彼にとっては、それが「情」と「正気」を保っているということなのだろう。