電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

1990年当時欲しかった、今の『超合金魂』

引きこもり作家滝本竜彦のエッセイ『超人計画』を読む。
読んでる間、笑いをこらえられなくなる箇所は限りなかったが、そのほとんどが「いや、そういうことは俺も考えたことがある」思い当たるフシ多数、という奴である。
「世間の男女でチャラチャライチャイチャしてる奴なんかより、こうして孤独と向き合ってる俺の方が哲学的・思索的なのだ→いやそんなこと考えてるからダメなんだ→外部世間に目を向けよう→世間の男女でチャラチャラしてる奴は〜」といった無限ループとか、俗世間を一足飛びに超越しようと偉そうにニーチェなどを引き合いにしつつ(愚民蔑視を気取る引きこもりがその自己正当化の根拠に持ち出すスノッブアイテムの定番がニーチェワーグナー! ……ってゆうか、ヒトラーこそまさにその元祖典型の固め打ちみたいな奴だった)、そういやそのニーチェもモテへん素人童貞の風俗狂いのまま脳梅毒で死んだっけ、ということにも触れてみるあたりとか……
ただ、決定的に世代差を感じたのは、昔ながらのこういう厭世的社会脱落者のおたく(例えば特にオウム真理教の信徒)によくあった、じゃあ世の中の方をひっくり返してやろう、という倒立したるファシズム千年王国思想願望(これについて触れたもっとも優れた書物が、竹熊健太郎の『私とハルマゲドン』であろう)みたいなもんが、まったくないように思えたことである(超越願望の変形としてのドラッグ体験記は竹熊氏と凄く共通してるのに)。まっ、まさにそこが「引きこもり世代」たるゆえんなんだろうけど。
自分の恥ずかしい性癖志向やら厭世間自己正当化の思考過程を正直に(しかもちゃんと「ネタ」として笑えるように)晒して見せる瀧本の筆致には嫌な感じがしない。で、読んでて今さら思ったのは「宅八郎もこういう芸風なら良かったのにな」ということである。
今から10年ちょっと前、当時まだ89年の宮崎勤の事件の記憶も生々しく、圧倒的にネガティヴなイメージが強かった「おたく」を初めて自分から自認自称し積極的に商売のネタにしようとした宅八郎は、インタビュに答えてわざわざ、自分は30歳過ぎにもなって童貞です、と強調してたそうだ。当時、浅羽通明氏は、この点に触れ「商品としての恥部」と題して、戦前の私小説作家の嘉村磯多(長らく無名不遇で、初めて自分の小説が当時の一流雑誌である『中央公論』に載った時「とうとう俺もこんなメジャー雑誌に……」と感激の余りアワを吹いて倒れ、更にその有り様を自分の小説にそっくりそのまま書いたというおっさん)を引き合いに出し、宅八郎はひとつこの嘉村磯多路線で自己露悪に徹してくれたら、これはこれで面白いかも……とか、そんなことを書いてたと思う。
――んが、結局、宅八郎は「おたくの情けない自己像露悪芸」に徹しきるでもなく、中途半端に奇異なおたくを「演じる」以上の存在にはならず、やがて、本格的におたくなりの見識を論じる岡田斗司夫切通理作ウェイン町山智浩などの登場の前に、ほとんどかすんで消えていってしまった……
しかしだ、やっぱり90年代前半当時では、まだ、こんな「引きこもりの脳内自己正当化の正直な吐露のセルフボケツッコミ芸」は商売にならなかったんだろうなあ。
瀧本の登場もやはり、90年代の10年間の歴史――バブル崩壊と就職難〜引きこもりの大量発生、Win95発売〜PCエロゲー&ネットの普及、オウム事件エヴァンゲリオン〜おたく自身による内面語りというジャンルの確立――とかいった歴史を踏まえてのことなのだろう……。
最近、ホビー屋で、昔のアニメや特撮作品を題材にしたできの良いフィギュアモデルなどを見て「俺が中高生当時こんなのがあったら嬉しかったのに」とか思うことが度々あるが、それと同じだ。結局、現在ある良いものってのは、すべて歴史の積み重ねの産物なんだろうなあ。