電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

目標としては「対等萌え」(今のとこ無理そうだが)

ブコメ漫画でもギャルゲーでも、話を発動させる第一歩として、相手との間にギャップやハンディキャップがある、ってのは、物語の仕掛けとしてはそりゃ燃える(あと、忠誠心に基づく自己犠牲とかってのも個人的好みでは燃えるが)。けど、見ず知らずの両人がお互い理解を深めて好感度をあげてく、ってのが正道だろうと思うのだが。
わたしが10代の最後(80年代の末)になって、はじめてハマったラブコメ漫画は安達哲の『キラキラ!』で、あれはまさに、従来ラブコメ漫画の主人公というと、サエナイ男の筈なのにモテるおとなしいのび太君か、カリカチュアされた硬派バンカラだったんだけど、主人公が、優等生なんだけど親にも教師にもただ従ってるだけの「おうちの子」であることにコンプレックス持ってて、まさに「外の世界の象徴」としての女の子にホレるって話で、なんか凄い「等身大感」を覚えた記憶があった。
どうもわたしは、出発点は対等な関係、あるいは対等を目指すもんじゃなきゃ何かズルいだろ、という意識がある(無論、現実にはどこでも、完全にそんなことはありえんし、自分自身、そんな「対等な関係」を作る力量ないしそうする努力もさぼってるけど)。
近代民主主義の「機会均等」「平等」概念の欺瞞の一つは、実は出発点での差異(家庭環境やら資産やら)があることを隠蔽してることだ、と浅羽通明氏も『流行神』で書いてた。
実際、対等なフリして実は先方が優位にある関係はムカつくよ。高校生の時、コミケで知り合った年上のサークル主催者とか、実社会じゃダメ人間なのに兄貴ヅラして目下のオタクにしか威張れない男だった、数年前に一日付き合わされたネットワークビジネス(マルチ風商法)の男もそのタイプだった(ただし、この手の人間は、バンドやってる人の間でも、演劇でも、市民運動でも、どこにも必ずいる)。だったらいっそ最初から「先輩の俺が無知で未熟なお前を善導してやる」って、ハッキリ言ってくれた方がイヤラシクない。
恥ずい罪科の自白をすると、わたしも専門学校に通ってた二年目、前年に自分が学内ミニコミ(ジャーナリズム系の)に書いた文章に感銘を受けたという新入生女子が入ってきたんで、舞い上がって兄貴ヅラしたことがある。が、結局、その子と面しても自分ばっか喋ってて、その子の在来持ってるものを引き出して対等な関係に持ってく技量がまるでなかかったんで、結局……ウヤムヤになった。(だから、今も、わたし如きの書いた物に同感するという人間が出ると、そりゃ嬉しくはあるけど「俺ごときに騙されんな」とも言いたくなる…)
ブコメ漫画でもギャルゲーでも、「自分の方が優位にあるシチュ」は兄妹シチュ以外にもいろいろある、兄妹シチュ以外でも、あんまり都合の良いパタンは「そりゃねえだろ!」と白々しく思えて、興醒めゲンナリ、なんか生理的にいやな感じがする。
ことに「妹萌え」ってのに噛み付いてみたのは、女の子の職業やら外見記号へのフェチってのは「萌え」って言葉の普及以前から全然ずっとあったが、「妹萌え」ってのは、特に近年変に目立ってる気がするからで、これはつまり、普遍的によくある人間関係の形で、虫の良い幻想を宿しやすいのが兄妹関係ってことなのかなあ……などと思うのであった。