電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

関係の形は変わる。それが成長だろ、と

わたしにも現実の妹はいます。しかも10歳ばかりも歳が離れてる。妹が小さい頃は周囲の要請でよく遊んでやった(そんなんより部屋で一人で漫画読んだり友人とやってた特撮同人誌の原稿でも描いてたかった)。当時妹が可愛いという感情はあった。でも、そりゃ、子犬とかの小動物が可愛いってのと同じようなもんだ、対等な人格のある関係じゃないもの。
その気になりゃ、何かムカついたことがあれば妹を殴ったり、こっそり妹の服を脱がしたりもできたろうが、もし実際やってたら、本当に、黒人相手にしか強がれないダメプア白人みたいだ、それは人間として情けなすぎる。そんなん嬉しいですか?
妹が10代の間はずっと会ってない。で、妹が女子大生になった頃やっと再会したら、お互い気まずい沈黙しかない(笑)。わたしと上の兄貴の方は、やはり10数年会って無くても対話ができたが、これは上の兄貴は、人生経験もつんだもう立派な大人になってて、だから、弟が自分とはぜんせん違うダメオタクでも、許容してやって対等に接してくれたんだろう。
榎戸洋司は『少女革命ウテナ脚本集』でこう書いてる
「この作品には、どうして兄妹の関係が繰り返し登場するのか、よく質問をうけた。ま、タブーであるがゆえのセクシュアリティがその大きな原因だけれど、多少もっともらしく説明を加えるなら、それが"対立する以前の人間関係"をわかりやすく描けると思ったからだ」
「『光さす庭』とは、薫幹にとって「過去にこだわること」の象徴である」
「対立しない人間関係の喪失は、幼い頃、誰もが一度は体験する通過儀礼であるから、幼い幹の病気を"はしか"にしてみました」

同作品のあざとい兄妹ネタは「いつまでも幼児期の幸福な関係にこだわっても、それは壊れるもんです」という皮肉だった。
実際、自分の妹がエリーザベト・ニーチェ
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20040310
みたいだったら嬉しいかって? やめてくれ、寒気がする、と言いたくなるわな(笑)
理想を言えば、わたしの妹が中高生くらいの時に「なんだよ兄貴いい歳してオタクで気持悪い」とか一度びしゃりと言われて、そこから対等な関係になりゃ良かったんだろう。が、そんなことわざわざ言ってくれる子の方が滅多にいません。ま、無言で引くだけです。
そう、だからエヴァンゲリオンの映画完結変のラスト、アスカがシンジに言う「気持悪い」ってのは、あれが拒絶という形の、関係の第一歩なんだと思う。
……だいたい、前回こんな話を虫干ししようと思いついたきっかけは、某畏友と「エヴァンゲリオン後10年の表現」についての話になったからだった。