電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

何度でも繰り返されるよくある話

前回も書いたけど、先日、某畏友が「エヴァンゲリオン後10年の表現(って、特にオタクジャンル表現だな)」というテーマを提示してから、いろいろ考えてて、今回のこれもその覚え書きみたいな物。

やっぱり80年代初頭生まれのアタシとしては大江の「遅れてきた青年」じゃないけど、戦争も、カウンターカルチャー、おまけにバブルまでたいした記憶もないし、遅れなかったのはオウムと不況とNYテロくらい?歴史の貧乏くじ引かされたみたいでつらいなあ、と。いつになったら「見る前に跳ぶ」ことができるのか?やれやれ。
http://d.hatena.ne.jp/narko/20040805

はい。似たようなことは、90年頃、わたしも考えてました(当時のイベントは昭和天皇崩御と冷戦体制崩壊? ああ、38年ぶりの非自民党政権崩壊(93年)もあったか…)
しばし前に滝本竜彦の『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』を読んだら、作中、主人公の無気力高校生山本がこんな感慨に耽る場面があった、要約すると、つまりかつては、若者には大人という「敵」があり、革命を叫んで学生運動をやったり非行に走ったりを経て大人になるもんだったが、今の時代にはそんなものがない(→だから、俺たちはいつまでもちゃんとした大人になれず、どっか無気力なんだ)、と。
また、戦争がありゃ、勝ち負けなんか関係なく、最初に特攻に行って華々しく死んでやるのに――とかいう独白も出てくる(これとまったく同じことは、かつて押井守が映画『紅い眼鏡』のサントラに寄せた「<犬>だった男の話」というエッセイにも出てくる。これは押井守自身の若い頃、70年前後の学生運動の時代を振り返っての文章だ)。
この手の感慨の吐露は、80年代初頭から、もう20年繰り返されてきた。例えば島田雅彦の初期短編『優しいサヨクのための喜遊曲』や『カプセルの中の桃太郎』とかはズバリそれがテーマで、60年代に乗り遅れたと自認する青年が、自分らの「運動」をやろうとしてコケる姿をアイロニカルに突き放して描いて当時斬新と言われたわけだが、この時点での島田は、結局「もうデカイ一発はない、ということが不幸にも僕には分かっちゃってるんです」という以上のことは語り得ていないように思えた。
滝本の小説では、そーいう退屈な時代に生まれついた無気力主人公が、そんなことを考えてたら「自分の敵」「自分の戦争」にぶつかって、紆余曲折の末、そーいう奴なりに一皮剥ける話にしようとしている。その読後感は悪くない。滝本にまつわる、引きこもり世代の新しい文学、という触れ込みは前向きに裏切られたな。むしろこれは全然王道の青春文学ではないか。村上龍の『'69 sixty nine』とかと変わらない気がする(この作品も、学生運動の主流が下火になる中、女の子の気を引きたいがため過激ぶってみた田舎高校生が、自分を本物のベトコンやらアルジェリアのゲリラと比較してその不真面目さに自己嫌悪したりしつつ、結局、自分が楽しいことをやりたいという思いで敢えてやる、という話だ)
恐らく次の「デカイ一発」が来るまでこのテーマは何度でも繰り返されるだろうが、だから今さら陳腐だとも思わない。これはもう永劫回帰みたいなもんだろう(少し違うか?)。
10年ちょっと前「デカイ一発はもう来ない」と言い放ったのは『完全自殺マニュアル』(1993年)の鶴見済だったが、結局彼は「デカイ一発はもう来ない、と分かってるボクの方がちょっと頭が良い」という以上のことは言い得てなかったのではないか? 実際、鶴見流の無気力ポーズが長期不況でごく普通の風景になる中、鶴見自身は、それ以上のことを言い得ぬまま、ただの向精神薬依存者として消えてっただけにしか見えてないし。
正確には、オウムの事件やら911テロやら「デカイ一発」があっても、圧倒的多数は関係なく生き続け、日常は続く。そりゃ「誰かのデカイ一発」であって、「自分の敵」「自分の戦争」を探すしかない、ってこっちゃろう。