電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

敵に税金払って生きてるのかも知れない僕ら

敵はいないわけじゃない。ただ、物凄く見えにくくなってるし、戦い難いだろうが。
前々回の『忘却の旋律』で、こんな話が描かれてた。
この物語では、世界は既に敵の手に落ちてる、大人の代表たる総理大臣は、国民の多数を守るため、既に人類を支配してる敵に、やむをえない犠牲として少数の生贄を出して取り引きを行っている、誉められることじゃないが、それが大人の仕事である。
さて、敵の王は何者かというと、なんと、もともと人類側の戦士で、先代の敵の王を倒した張本人だという。敵の王を倒したはよいが、敵全部を全滅させることは出来ない、なぜなら敵は既に世界に蔓延し世界と骨がらみになっているからだ。で、やむなく敵を抑えてコントロールするために、自分が倒した王に成り代わらないとならなかったのだという。
前にも書いたが、この作品では、世界の秩序は既に敵との共存で成立してるから、敵と戦う戦士である主人公たちは、人類を守るため戦ってるはずなのに、平和な日常に波風立てる人間として嫌われ、ちっとも感謝されてない。
――なんという絶望的な世界観設定か! とのけぞった。
これじゃヒロイズムも立ち上がらんわ(マンガ版(原作にあらず)の方では、主人公が年長の先輩戦士「黒船」と行動を共にしつつ「いつか俺も追いついて一人前になってやる」と燃えている姿が、キャプテンハーロックと台羽正みたいで、王道少年漫画っぽく好感を覚えてたが、アニメ版は、そういう王道少年漫画要素が見事に無い。これは榎戸洋司脚本の資質なのかなあ)。だが、これって本当にいやなリアリティがあるなあ、とは思った。
ここでいう「既に我々を支配してて共存を余儀なくされてる敵」って、あざとい見立てをすりゃ「日米安保体制」(我々は主体性を放棄してアメリカに基地を提供して保護されてる)とか「日教組戦後民主主義教育」(今の自由もそれがタテマエなればこその物だ。今すぐ戦前の教育に逆戻りしても軍事教練に耐えられる奴はそうおらんだろう。当然わたしも)とか、いくらでも当てはめ可能だ。
敵があるとして、それが一切今の自己(を成立させた環境)を否定することなく正面から幾らでも叩ける他者だなんてお気楽な話はそうあるまい。敵は、今や、我々自身を生かしてて、自分らが首まで漬かってる社会のシステムそのものと骨がらみなのかも知れない。