電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

あえて「出る杭」になる 勝てへん戦いの意味

結局、わたしより10歳近く若い滝本は実は一回転して王道だ、という印象を得たが、さて我が同世代、一頃はやれ「団塊ジュニア」とか騒がれた1970年前後生まれは何をやっとんじゃ? とか思う(既に述べた通り、東浩紀先生(1970年生)の言う「動物化」には、わたしは同感してません)
とりあえずわたしが「同世代らしい問題意識」を感じてるのは、上遠野耕平(1968年生)と遠藤浩輝(1970年生)。
上遠野のブギーポップ・シリーズでは「統和機構」という、俗に言えばショッカーのような「悪の組織」みたいなもんが出てくるが、それはもう既に社会のシステムと一体の物で、別にボスもいなければ、主人公が「統和機構」をぶっ潰すのがシリーズの終わりになるとも思えなそうな世界観設定だ。
ブギーポップ・シリーズは、乱暴に言ってしまうと、ほぼ毎回、特殊な超能力の持ち主が、当人は善意のつもりで何かを始めるのだが、そこでトラブルが起こり、「統和機構」がそれを「出る杭」として潰そうとし……結局、事件を最終的にはブギープップがジャッジメントする、といった具合か。
善意が人を救うとは限らないとしつつ、その善意自体は否定せず、なまじ人並みはずれた能力の持ち主ゆえ、当事者たるより傍観者となろうとする心性(というのはインテリの心性だ。それもまさに80年代的な相対主義者の)への疑念が繰り返し語られる。そこには、今や大それたヒロイズムなど成立し得ないと自覚しつつも、この世に正義や善意があって欲しいという意志が読み取れなくもない。
遠藤の『EDEN It's an Endless World!』(=「終わりなき日常」!?)では、主人公のエリヤは、細菌兵器による大災厄後の世界で麻薬王として成り上がった親父(というのが、そもそも、更にその父をぶっ殺して「楽園」から出て行った男である)の恩恵によってヌクヌクと生きてきた坊やだ。エリヤの周囲では親父のせいでテロや紛争によって彼の知人の女子供が次々死ぬが、エリヤ自身はずっと安全圏にいて「お前が手を汚すことはないよ」と言われながら、「このままでは自分が許せなくなるから」「俺はもう汚れてます それも中途半端に」「だから決めたんです 死んでも天国に行きません」「正当化はしません」と言って、"傍観者"から"当事者"になる。
エリヤが抱えてたのは、自分は望んだわけじゃないが既に搾取階級側で、ちんこの生えた生き物で、という罪悪感だ(このテーマの原形は短編『プラットフォーム』に既に出てる)。だが、だからって、フェミ左翼の正義(資本主義男根原理批判)に屈してその奴隷になるでもなく、むしろ、それを経て、じゃあ俺は俺の身内は守れるようになってやる、と一皮剥けてやろうとする――このテーマの立て方、少なくともわたしには、もう今の若い世代ではナチュラル自己肯定が自然となってるんじゃないのかなあ?と見える現在(と書くと傷つく人もいるのか?)、既に致命的に古くなってる気もするが、逆に言うと、それを正面から描こうって野暮な奴は、結局もう遠藤しかおらんかったのか、とも感じてる。
――いずれにせよ、勝ち目のある戦いじゃない。だが、勝つことが目的ではない、流されてても、いや流されてりゃ安全で裕福な暮らしは出来る。だが、敢えて抗う、それによって自分が成長したいがために、ってのがテーマではないかと……いや、これ、案外、ぜんぜん今に始まったことじゃなくて、実は戦後ずっとの王道だったんじゃないのかなあ……