電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

匿名の群衆に紛れられる空間がなさそうな街

野暮用あって多摩センターへ。京王線で調布から西なんて行く機会はなかったから、新宿から30分そこいらでこんな山も森林もある土地に来られるとは知らなかったんで少し感心。
確かに空気は良さそうで、目も休まりそうだ、が、(住人には悪いが)こういう郊外ってのは、俺みたいな人間には、ちょっと住む気にはなれん気がしてならなかった。
延々と見えるのはでかいマンションと幾つかの郊外型大型店舗(各駅にはやたらブックオフの看板が目立つ)、道が広くて最低限バイクか車は必要そうで、歴史のある土着的な共同体なんかなさそうだが、平日昼間っから、多様な商品と群集に紛れ、匿名の人間になれる空間(ベンヤミンの言うパサージュみたいなもん、更に言えば、宮台真司先生がかつて家庭、学校、地域に代わる「第四空間」として提唱しようとしたようなもの?)があるようにも思えない。
わたしはオタク人種のくせ、引きこもりだけで自足できず、どーしても人のいる場所をふらつきたくなることがある。と言っても、同じよーなオタク人種が集まってきて、曖昧に、許容されてる場だ。例えば、秋葉原の、大型店舗の谷間にあやしげな中小中古パーツ屋や中小同人ショップが乱立し、休日には路上で物を売ってるようなジャンクな感じは妙に落ち着く、同じく新宿で大型量販店の谷間に怪しい群小ショップが乱立する風景も案外好きだったりする、上記例と一緒にすると怒る人もいるかも知れないが、早稲田〜高田馬場界隈みたいな学生街とか、高円寺〜阿佐ヶ谷、鷺宮あたりで中小古本屋が密集してる土地が好きなのも自分の中ではジャンクさへの好みという意味で同じような感覚の部分がある。
中高生当時住んでたのは福岡市近郊の炭鉱跡地で、かつては活気ある地元産業共同体があったのかも知れないが、そんなもんはわたしらの一家が移り住む10年前に消え失せ、ただのサラリーマン家庭の住む郊外ベッドタウン住宅街と化してて、わたしはその空気にどうしても窮屈さを覚え、学校帰り、わざわざ自転車で福岡市の中心街に遠回りの寄り道をして、何も買わないくせに(だって金ないから)「多様な商品と群集に紛れ、匿名の人間になれる空間」をえんえん無意味にほっつくのが習慣になってた。
――こういうの、オタク人種のくせに変と言われるかも知れぬが、乱歩が猥雑な浅草の見世物小屋街の群集に紛れることを好んだのを思えば、これもまたオタク人種の伝統的特徴かも知れぬ気がする(わたしはずっと、東京近郊在住で長男で家業手伝いだった宮崎勤は、その郊外の空気に耐え切れずおかしくなったのではないか?と思ってる部分がある)
滝本竜彦の書いてることには他人と思えぬ部分が多いが、彼は秋葉原のようなジャンク街を好む傾向は特に無いらしく、なぜ町田なんていういかにも引きこもりが浮きそうな典型的郊外都市に住んでるのかと勝手に思う? まあ彼は元より広い北海道出身だから郊外が嫌じゃないのかも知れない。