電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「空虚な中心」を探して

那須きのこ『空の境界』上下巻やっと読了。
人為により世界の摂理に反する行為には必ず自然の「抑止力」が働くという発想とか、人格というのは脳の知識情報だけでなく肉体(による差し替え不可な経験、経歴、人間関係環境etc)で成立するものなのだ、とかいう視点とかが、とかく、この手のファンタジーライトノベルでは、観念だけで世界を俯瞰したいという願望に傾きがちな中、地に足がついてる点だろうな……とかいう感想文を書いてもいいんだが……それよりなんか引っかかったのが、巻末の笠井潔の「山人と偽史の想像力」「「リアル」の変容と境界の虚無化」と題された解説だったりする(こういう本筋外れた枝葉末節ツッコミが悪い癖だ)。
笠井先生曰く、国枝史郎とかをルーツとしつつ、70年代、五木寛之半村良山田風太郎、また平井和正らによって開花し、80年代、荒俣宏菊地秀行らによって隆盛を遂げた「伝奇小説」というジャンルは、90年代に入ると一時失速、衰退したという、で、その理由は何かというと、89年に昭和天皇崩御したからだという。
いきなり「天皇」かよ! たかが(失礼)、エロゲー近接ジャンルのラノベの話でこれだから全共闘崩れオヤジはよぉ、読者がついてこれるのか?とも思いはしたが、いや、考えを推し進めると、言わんとすることはわかる、ただ、少々言葉が不足じゃないかと思った。
笠井先生の話を要約すっと、70年代、辺境やら周縁やら土俗やら反近代に着目した伝奇小説のブームは、大枠では左翼なインテリたちが、60年代まであったマルクス主義(近代科学合理主義)的な反体制運動の限界から、それらに着目するようになった時流と重なっていたという。
昭和天皇崩御した89年に書かれた『逆襲版ニセ学生マニュアル』では、浅羽通明氏は、戦後日本の政治思想潮流をこう四分類していた。

1.体制的&土着的――前近代的農村を基盤とした保守勢力
 原則として明治以来の伝統の延長上に天皇制強化護持をはかる
2.体制的&西洋的――都市化、国際化を看板とする保守勢力
 天皇制は、イギリス風王室を理想とする場合もあり、近代国家的利用
3.反体制&西洋的――近代化と社会主義をセットにした革新勢力
 天皇制反対、廃止を一貫して主張。せいぜいイギリス風王室化
4.反体制&土着的――前近代的エネルギーによる革命を模索する勢力
 幕末など尊皇攘夷思想が革命思想だった点に留意。だが天皇以外の土着カリスマ(新興宗教など)をより重視する場合が多い。

それぞれの基盤層は、だいたい、1は昔ながらの田舎の地主とか従来の自民党、2は都会の企業家とか、3は都会の若い高学歴インテリと工場労働者、4は田舎の開発取り残され地帯、あるいはアイヌ、沖縄、被差別部落などへの着目、という感じだろうか。
で、笠井先生は、日本の伝奇小説のはしりは、天皇制を頂点とする民族秩序という「中心」に対する「周縁」、つまり山窩とか蝦夷とか琉球とか「山の民」「妖しの民」(網野善彦先生のフィールドですな)が、民俗学的に天狗や国津神やらに姿を変えたとかいう背景やらに着目した作品群だという。この辺は、異論ない。
笠井先生が挙げてた以外で、それに重なる問題意識を背景とする作品には、ずばり日本先住民の大和民族への反乱を扱った特撮ヒーロー(!)佐々木守脚本の『アイアンキング』や、巨大な力を秘めた琉球アイヌの秘宝が現代に出現する星野宣之の漫画『ヤマタイカ』、紀州熊野の「妖しの民」の歴史を背景とする中上健次の小説群も当てはまるだろう。

――さて、しかしわたしが上記のような知識を得たのは、20歳過ぎて難しい本読むようになってからだ。
以下は80年代、ただの田舎の一介のオタク中高生として過ごしてた身にとっての実感の話。
伝奇小説の最末端消費者だった筈の、80年代に10代、20代を送ったおたく青年らにとって、昭和天皇って、そんなに大きな存在だったろうか? 天皇制なんて、もはや、それ以前の左翼学生にとってのような強大な敵、国家権力の頂点の象徴なんてものとも思えず、はっきり言って空気みたいなもんだった。だがその「空気みたいな感じ」こそが不滅性だった。
80年代に10代、20代を送った人間として「昭和天皇」「自民党単独政権」「米ソ冷戦体制」この三つは、既に30年間以上、自分らが生まれる前からずっと存在してるもので、それらがなくなる日というのが、本ッ気でまるで想像できなかった! そりゃ天皇に関しては人間なんだから絶対いつかは死ぬ、とはいえ、在位60余年、もう死にそうな顔のまま10数年も生きてる、それに当時は皇太子(平成今上天皇)がほとんどマスメディアに出なかったから、ますます「昭和の終わった後」が存在するなんて、想像の手材料が無かった。
俺らはこのままずっと、上記の三つが不変のまま、その枠内で、こういう伝奇小説とかのファンタジーやオタクカルチャーを消費し続けるのかなあ、という感覚だった(この気分を説明するのに一番わかりやすいのが「外の世界では宇宙戦争が続く中、自分らは「船内には(東北の農村も飢餓のアフリカもなく)渋谷と原宿しかない超巨大宇宙都市船で放浪し続ける」というアニメ『超時空要塞マクロス』だろう)。
以前、我が同年代の畏友の一人は、日本じゃ20世紀→21世紀の千年紀またぎってのがあまりインパクトなかった気がするが、それは日本がキリスト教国じゃないからってだけでなく、俺らは既に昭和→平成の代替わりと冷戦崩壊を見てて、そっちの方が『時代の切り替わり目撃』ってことじゃインパクト大きかったからじゃないか、という意味のことを言ってた。彼は小学生当時1999年には米ソ核戦争が起きると本ッ気で信じきってたとも語った――これと同じように感じてた人、ひょっとして結構多かったんじゃないかなあ?

――で、とか思ってたら、89年には昭和天皇崩御、91年にはソ連崩壊、93年には日本新党を中心とする非自民連立政権発足ときたもんだ、不変に思われた枠組みはあっさり崩壊した。が、それで世の中が劇的に変わった気はしない。しかし、なんか、不変と思われた秩序の象徴はなんのこっちゃハリボテだった、ということによって、世はもはや何でもあり、の無限拡散状況、万人の万人に対する闘争状態になっちゃった、というような気はする。
これはイメージの問題に過ぎないともいえるが、ひとつ確実にいえるのは、自民党の政治家があからさまに若者に媚びた戦略を取るようになった、ってことじゃないだろうか。
当初の「変人」イメージがむしろ従来にない型破りさとプラスに働き、離婚暦もあり子供はいても独身の小泉純一郎、はっきり言って「一人前の大人の男は家父長として妻子を養ってなければならない」という家族道徳が強固だった従来なら、絶対に総理大臣にはなれなかったタイプの筈だ。
でまあ、象徴的な関連性つなげてつなげてゆけば、そういう家族道徳思想、自民党と農村土着共同体の骨絡みの関係とかの背景には、戦前からの家父長像の象徴として、昭和天皇って存在が大きく影を落としてたのかも知れない。昭和天皇崩御の89年はバブル経済の頂点でもあった。物質的豊かさ、膨大な商品文化の豊潤さが、一元的家父長的権威を解体無化してしまった(ほとんど、左翼とフェミニストの功績ではない!!)
笠井潔先生は、昭和天皇死後の90年代、伝奇小説が一時廃れた代わりに浮上したのは「謎―解明」の論理に支えられた探偵小説だというが、少し分析が粗い気がする。より正確には、もはや「中心/周縁」の二元論図式に基づく社会的巨悪もアウトローヒーローも成立しない中、自分自身をも含めた個々人の内面に異物、敵、恐怖の象徴を見出そうとしたサイコサスペンスとかが注目を浴びるようになった、ってことじゃないだろうか?
この「大きな物語」(父権的で強大な敵の出てくる物語)はもはやリアリティない、で、むきだしの個の内面が(社会をすっ飛ばしていきなり)むきだしの世界と直面する、とかいう物語類型の流れで、95年、『エヴァンゲリオン』も出てきて、その流れの先に『空の境界』も含む「セカイ系伝奇ライトノベル」ってもんが浮上してきたんじゃないかなあ、と。

笠井先生は東浩紀先生仕込みらしく不器用に「萌え」文化についても言及し、この手のお話のお決まりの図式は「日常=平凡な少年」と「非日常=戦闘美少女」という形だと語るが、惜しい! このパタンが支持される理由にまで踏み込めてない。それは何かって? この手のお話を消費したり書いたりするへりくつ好きな青年(俺も含めて!)にとっては、異性たる女の子ってのが(いかに文明が発達して世が均一になって周縁がなくなろうと)、永遠にして最後の、惹かれてしまう異物、外部世界の象徴としての、他者だからだよ(笑)!!

ところで、『空の境界』って題名は、このお話の、式という主人公美少女の中にある、式という日常的な人格と、非日常的な殺人鬼の識というもう一人の人格の境界は何なのか、それは実は空(カラ)でした、そこに相方の主人公少年黒桐をはじめとする他者との人間関係によって作られたものが入ってました、ということらしいのだが、おお、それってまさに「空虚な中心」((C)ロラン・バルト)かい!? 笠井先生、天皇にかこつけた解説やるなら、ひとつこう落としてくれたら笑えたのに、とか思うのであった…(←毎度のこじつけです。本気にしないで下さい)