電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

他者同士自衛が義務の国、均質化が義務の国

「おい、おれたちを撃つんじゃない!」
「なんだと?」
「おれたちを撃っちゃいかん、でないと、こっちも応戦するぞ!
 ジョージ・オーウェルカタロニア讃歌

先日、木曜洋画劇場マイケル・ムーアボウリング・フォー・コロンバイン』を観て改めて思ったが、結局皮肉にも、この中でムーアが語ってた「アメリカで銃犯罪が多いのは『恐怖』のせいだ」という意見と、ライフル協会会長ヘストンの「いろんな人種、民族がいるから」という意見は、どちらも正しく、実は相互補完的な問題じゃないか?と。
同作品によると、カナダの方がアメリカよりよほど銃の数は多く普及しているのに銃犯罪は少ないという。また作中の『サウスパーク』風なアニメパートのアメリ銃社会史では、ずばりアメリカという国では独立以前から300年に渡り「自分に危害を加えそうなよそ者は撃ってよし」という価値観が民衆の間に染み込んできたと語られるが(これは日本とかと大きく違い、開拓時代ずっと、また今も地方の大部分じゃ、家々が相互に離れ、荒野の一軒家状態だという点も大きい筈だ)、実際、世界中から移民の集まるアメリカほど人為的に「よそ者同士の国」として造られた国はあるまい。わたしも人種憎悪を肯定する気はさらさらないが「よそ者は怖い」というのは人として自然な感情で、仕方ないのではないだろうか。

お互いに
君と僕と恐れている。
(中略)
君は僕がやるに違いないと思い、
僕は君がやるに違いないと思う、
あらゆる悪意と暴行に対して、
民法や刑法の幾千箇条を定めた。
これが
君と僕の社会だ。
君と僕の監獄だ。
 大杉栄『社会か監獄か』

――と、そんなアメリカから振り返ってみると、限りなく単一民族国家に近く、何百年にも渡り「同じ日本人、話せば分かる」という価値観が民衆の間に染み込んできた我が国は、なんともおめでたくのん気なものだという気もするが、逆にいえばそこには「日本人にならずんば人にあらず」という同調圧力のプレッシャーという問題が存在する。陰湿だぞ。どっちがマシかは簡単に決められない(あんま人が死なないのは日本のほうが明確にマシだが、企業内同調圧力で自殺に追い込まれるストレスとかあるからなぁ…)
ま、どこの国のどんな共同体でも、何らかの形でその社会の問題点はつきまとうのだろうな、と。

とかくに人の世は住みにくい。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 夏目漱石草枕

――でも、考えてみるとちょっとオカシイのは、ライフル協会やらアメリカ西南部の市民軍(ミリシア)が銃を所持し個人で自衛するのは、本来、南北戦争で負け組南部側の、反中央連邦(東北部)政府思想と結びついてる部分があるのに、それがロビー活動で政府保守権力と結びつき支えてる、って構造、これは矛盾してるのか……?
まあ、日本でも維新の負け組だった東国士族がその後の明治〜昭和の軍国主義を支えたとか、ドイツでも統一時プロイセンに屈したバイエルンナチスの温床になったとか、辺境ルサンチマンが強権を求める志向に結びついた、ってパタンの要素があるのかも知れないけど……