電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「12人の本音を隠す日本人」予告編

たまたま『十二人の怒れる男』と、『12人の優しい日本人』を二本続けて観ることになる。
2009年から日本でも裁判員制度が導入されるそうだが、ここでもネックになるのは、間違いなく世間論だろうなあ、と思っている。
アメリカの陪審員制度は、同国の歴史的土壌によって叩き上げられたものだ。
開拓時代のアメリカの田舎じゃ、馬泥棒や水泥棒が出たとき、いちいち保安官を呼んでいては間に合わず、その場で、よく言えば直接民主主義、悪く言えば村のリンチで裁きが決せられることがよくあったという。
日本で同じ事態になったなら、地縁、血縁のしがらみで、いやな裁きになったろう。実は村内の人間が有罪でも、丸く収めるためによそ者に罪を着せ、皆それで口をつぐむ、というようなことになってしまったのではないか。
だが、幸か不幸か、移民の国アメリカは、そもそも「他者同士の国」ゆえ、直接民主制が発達した。
日本で裁判員制度が導入された暁に、一般人から集められた裁判員が、どこまで、自分の携わる事件、またその被告について、その出身地、社会的属性(学歴、性別、氏素素etc…)にまつわる偏見なく、また職場や地域の噂話などに影響されずジャッジできるかは、かなりあやしい気もする。
だが、日本人はとにかく、その時に自分のいる「場」に合わせてしまうのだ。極端な例だが、たとえば仮に、被告が在日だったとする、で、普段2chで嬉々として「チョン氏ね」とか書いてる人が審判員に選ばれたとする、すると、そんな彼も、他の審判員が人権意識旺盛で無罪を主張してれば、結局自分も無罪に投じてしまうのではないか? で、家に帰って2chに「どいつもこいつもチョンを擁護するブサヨクで!」と書くと(笑)
……笑い話ではない、共感するかは別として、人間心理としてはありえる話だと思うのである。
実際「高卒氏ね」とか「チョン氏ね」と盛んに書いてる人でも、「いやあ、僕、高卒ですけど……」とか「私、在日なんですが……」と言いながらも、好意的同意的友好的に接してきた相手には、自分の原則をねじ曲げて付き合ってしまう人間は少なくない。
やはり、ネットは人前で本音を言えない日本人にとって、世間と表裏一体の補完物なのか……