電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ジャンク民営資本主義は人工的には育たず

パルテノン多摩の中には、地元の歴史を展示するミュージアムがあった。昔この地域では竹細工産業が盛んで、ザルなどが造られていたという――と、いうことは、この地には、かつては山窩(サンカ)の里があったのだろうか? ミュージアムはそこまでは伝えてないが、さりげなく一つ目小僧の民話も紹介されてる(「目」の多い竹ザルが妖怪一つ目小僧を追い返す道具になった、というのは、既にその家は竹ザルを買ってるとわかれば「山の民」は来なかった、というメタファーなのかしらん?)。昭和40年代にニュータウンができた前後、彼らはどこへ去ったのかは謎である。いや今でも姿を変えているのかも、それこそトロロみたいに(笑)
60年代、多摩の地元農民は、当初ニュータウン計画を歓迎したという、当時既に都市近郊農業は行き詰まりかけてたからだそうだ。いくら農産物の大量消費地に近くとも、土地は徐々に切り売りされて農地は減り、交通流通網の発達で、地方の大規模な農園での大量生産薄利多売される農産物に押されてるようになってたからなのだろうか。
時間が無くて商店街やショッピングモールを覗く暇は無かったが、やはり、元農家が多いのに、そこでは地元農産物は余り売ってないのだろうか、だとすれば、スローフード礼賛の叫ばれる昨今皮肉と言えそうだ。
昭和46年(1971年)にニュータウンが発足する時には「世界最大の人工都市」などと言われたそうだが、最初の数年は、とにかく商店街が無い、仕方なく夕食は缶詰を食ってたとか、まだ小田急線も京王線も来てないんで交通網が無く自動車通勤は渋滞で往復4時間とか、学校も病院も絶対的に不足で「陸の孤島」などと言われたらしい。しかしそんな中、当時の新聞記事で「ここに住んで子供は元気になった」という話は微笑ましい(赤土の造成地は、まさに当時「仮面ライダー」で怪人とライダーが戦った風景だ!)
最初の団地は、部屋も狭く住宅環境も悪かったが、80年代以降改善され、きれいなマンションが増えたのだそうだ。アメリカの、移民によって出来た地方都市には、先発移民(アングロサクソンアイルランド、ドイツ系など)と後発移民(ロシア、東欧、アジア系など)の対立が根深いところもあるというが、ひょっとしたら、たった30年ほどの歴史の多摩ニュータウンにも、先発移住者と後発移住者の微妙な階層差はあるのかも知れない。
興味深かったのは、土地を売った地元農民のその後だ。当初は、酪農への転業などが薦められたが行政の取り組み不足もあり、結局、商店に転業してのニュータウンへの優先出店がほとんどに落ち着いたのだが、慣れない「武士の商法」ならぬ「農家の商法」に苦難した人が多かったという。売れ筋商品が何かを見極めそれを確保する、価格を下げるための仕入れ流通網の研究、他店との差異化などには、それなりの知識と経験が必要だ。
何ともうならされたのが「出店する店の種類の割り当てが決まってたので、競争原理が働かず、商店街の発達が鈍くなり、結局大型ショッピングセンターに食われた」という話。つまり、例えばそれまで何も無い場所なんだから、一区画に四つの店が入と決まってるなら、八百屋が二店、金物屋が二店じゃ困る、まずは最低限の全種、ってことで、八百屋一店、肉屋一店、金物屋一店、瀬戸物屋一店、というのが求められるものだろう、だが、なるほどこれじゃ競争原理は働かない。古本屋の密集した学生街や、秋葉原や新宿の同業群小店舗密集のジャンクさは、計画なく自然発生的に造られた街特有の物なのだろうが、それとは真反対だ。そこへ郊外型モールが来りゃ、そりゃ一人勝ちするわけである。こじつけめくが、実際、旧社会主義圏の人工都市もそんな感じだったんだろうか。
――と、今回は、なにやら、現在当地に住んでる人には少々失礼な書き方になったかも知れまぜんが、予備知識も無くふらりと来たマレビトの、少々誇大解釈まじりの印象なんで、まあ、反証、傍証などあればありがたいです……。