電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ブラックボックスを意識する神の目

昨今の物語表現の悪い癖の一つは、何でも自己言及的に説明しすぎることだ、とか言われ紀里谷和明監督の『CASSHERN』もそう評されてたのを目にしたが、先日西尾維新を読み始めても少しそう思った。
クビキリサイクル』を読んだ段階では、話の舞台となる「鴉の濡れ羽島」に集まった人物が、とにかく天才と呼ばれるぶっ飛んだ非常識な人間ばかりで(『黒死館殺人事件』とかを意識してそうだが)、いきなりそういう人間の目を通しての「世界観」の話ばかりで、はじめから普通の人間の視点の高さを描く気がなさそうなのには面食らったが、ミステリとして「誰が犯人か」「どうやって殺したか」という点での論理的、合理的解決あっても、動機、犯人はその後どうする気なのか、島の女主人の真の正体とかいった辺りは「しょせん天才とやらの考えることはわかりません」という感じにブラックボックスの部分を残していて、その曖昧さの方がむしろ奥深さを感じさせた。ここまで論理的に説明されたら却って白々しく興醒めしたと思う。
そう、人間にわかることなんてど〜せ限られてる。同作品では様々なジャンルの天才がそれぞれの世界観に立って対立する感情が描かれたが、例えば、言語学歴史学分子生物学素粒子論…だとか学問にジャンルがいろいろあるのは、そのいずれも単独じゃ世界を説明しきれず、相互補完的に、多様な角度からやっとなんか世界の輪郭が見える、ってなもんだろう。そのためにたくさんの人間がいて多様なことを考えてるおるのだろうし。