電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

矛盾こそ世の中のあるべき姿?

論理的整合性のオチなどつかないブラックボックス小説といえば、こないだ初めて芥川龍之介の小品『藪の中』を読んだ(この歳まで、どんな話かは知ってたけど未読でした)。※以下ネタバレ注意。盗賊の多襄丸は「夫婦者を襲って女の方をレイプして夫の方と決闘して殺し、女は逃げた」と証言、逃げた女は「夫の前で辱められ、賊は去り、夫を殺して死のうとしたが果たせなかった」と証言、殺された男の霊は「辱められた妻は逃げ去り、賊も去り、自分は自決した」と証言、矛盾である、が、文字通り真相は藪の中だ。
なんかレイ・ブラッドベリの初期短編のような味がある(全然関係ないが、高橋葉介の初期短編『宵闇通りのブン』収録の、女の気を引くための嘘の冒険談で手足を失ったと書いて辻褄合わせに本当に手足を切り落とした男の話は、ブラッドベリの短編『マチスのポーカー・チップの目』の、業界人の興味を引くため自分の手と目を義手義眼に変えた男の話がヒントなのかな?)。
福田恆存全集の中にたまたま「『藪の中』について」という一文があったので読んだら、当時(というのは芥川が書いた大正11年、1922年当時でなく、福田が論じた昭和45年、1970年当時)、中村光夫が『藪の中』では、結局この話は自殺か他殺か、他殺なら犯人は、という(ミステリ的な)合理的説明がつかず矛盾が矛盾のままゆえ「活字の向こうに人生が見えない」と論じてたらしい。芥川は人を煙に巻く知的遊戯をしただけだ、と言いたいのか? いや、実際芥川にはそういう面も無いとは言えないだろうけど、そういう見方だけってのも真面目というか無粋というか……。
これに対し福田は、芥川は「人生ではなくお話」を読ませる作家で、そういう文学だってある、「真相はつひに解からないという事にしても、これを単なる懐疑主義、不可知論として片附けることは出来ない」、合理的論理的オチばかりをを求めすぎては「吾々の現代文学は、明治以来、色々変更をして来たものの、いつまで経っても平面的なリアリズムというものから抜けきらぬであろう」と書いてる。読んでて、ああなるほど!と膝を打ったのは、福田曰く、多襄丸の証言にしても裁判の席上での「自己劇化」が入ってると見るべきだろう、と。ああそうだ、近代以前の人間でも(むしろ近代以前なればこそ?)、現実そのままを語るなんてあり得ず、主観は入る、って意識はあった筈だ。必然的に、世界は個々人のバラバラな主観によって成り立ってる筈で、続けて「獨断的な、余りに獨断的な」を読んだら、この話が、更に主観で世界を描ききれるという思いこそおこがましいのではないか?という問題意識を根底に置きつつ、いわゆる自然主義文学の一面の批判につながるように見えた。