電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

半端な悪党 矛盾する行動のリアルさ

『藪の中』の盗賊多襄丸は、殺しも強姦もやるだろう悪党だが、(状況的には彼のせいでも)直接殺したわけでもないかも知れない相手のことを自分が殺したと言ってみたり、悪党なんだからエゴイスト一辺倒でもない、どこか自分で自分の悪事の範囲を意識した人間であるかのようにも見える。それが福田の言う「自己劇化」ということだろう。
同じ日『トレインスポッティング』を借りてきて観た。ユアン・マクレガー演じるダメなジャンキー青年レントンは、なんかまあ理解は出来なくないが到底共感は出来そうにない奴で、全然クレバーな悪党とも言い難い卑小な小物だろうが、よく考えてみると、ダメなジャンキー青年なりの「分」は意識してるようにも思えた。ドラッグ中毒の無軌道な若者、となれば善悪観念の完全に壊れた際限ない悪党かと思えば、決してそうでもない。
好意的解釈に過ぎるかも知れないが、女が欲しいと思ってディスコでナンパするのに、翌朝になって、引っ掛けた相手が女子高生と知って、さすがに気まずそうになって真剣に頭を抱えて申し訳なさそうにしてるし、ラストでは仲間とともにドラッグの取り引きで大金を手に入れ、それを一人でガメるが、考えてみると、取引相手も出し抜いた相手も、自分と同じよーなダメ不良だし、仲間の中でも一応真っ当な奴一人にだけは、こっそり分け前を渡してる。こういう描写は単純な悪玉とも善玉ともつかない多面性を感じさせ、矛盾してるようだが、むしろ、案外と人間そういう面もあるかも、と妙に納得してしまった。
ひょっとするとレントンは、昔風のヤクザの流儀とかではないが、むしろ卑小な小物のダメジャンキーゆえにこそ、「いくら俺だってそんぐらいの最低限の善意はあるぞ」と思わなければ自分を支えれらず、それゆえカタギには手を出せない奴で、しかしある意味これが逆説的な、ダメ悪党ならではの「分」を守る倫理観と言えるのかも知れない。
無軌道なジャンキーなんだから、殺しでもなんでもバンバンやるだろ、というのは単純な解釈だ。松本清張は『日本の黒い霧』の中、帝銀事件の犯人は平澤貞通にあらずと論じた文中で、平澤は詐欺の前科があったせいで、世間的にも偏見的に犯人断定されてしまったが、詐欺と殺人は違う、詐欺をやるよーな小手先犯罪者は殺しはできない、と断言していた。そう、レントンは臆病なダメ人間だからこそ薬に逃げてる、と描かれてるのだし。
ジョゼと虎と魚たち』では、劇中のジョゼの婆さんは身障者というマイノリティなりの「分」を守り過ぎた欲は持たないことを身を守る術としていたが、レントンの小物ゆえの「分」かも知れない一面、うっかりすると自分でも忘れてそうなまま、しかし皆日常的にやってる「自己劇化」を意識すること、ってのが、案外と、自分みたいなダメ人間なりの人生しのぎ方のヒントの一つかも知れないな、とか漠然と考えてみたり……