電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

問題は、思想の中身の上下左右ではないのだ。

このへんは、かつて自分もそういうフシがなきにしもらずだったからこそ世代的責任感を持って強調しておくが、未熟な若人が、まず自分自身の立ち位置(どうやって喰って、生きてるんだ?親に養ってもらってるのか、毎日何やってるんだ、どういう文明の利器に頼ってる?それを作ったのは?……)をすっ飛ばして。自分の外部にある借り物の「大きな正義」(愛国でも反戦でもどっちも同じことだ)に飛びつきそれを偉そうに振りかざすことでいい気になるという構造である。
だから、何十年か後、また今度は再び事態が逆転して、戦時中の日本軍の悪行を他人事のように非難するのが正義、ナウい、カコイイ行為となったら、その時はまた、断固、爺さん世代の擁護論をやってやろう。これを矛盾とは思わぬぞ。
そういや少し前『正論』で、2ちゃんねる憂国書き込みを「今とき若いのにこんな素晴らしい人たちが大勢いる!」と大真面目に大絶賛で擁護迎合礼賛してる人がいたが、ああそりゃ2ちゃんねるにだって真っ当な草の根憂国者もある一定数はいるだろう、が、書き込みの字面だけは立派な人間に、その実、いい歳して定職にも就かず、こうして天下国家のことを憂えている俺らの方が世間のチャラチャラした奴らより偉いはずなのに、なんでモテないんだ?とルサンチマンためこんで、自分より強い人間には一切逆らえないくせに中韓の悪口で憂さ晴らし――とかいうよ〜な人間だって一切含まれてないという保証は無い。
80年代〜90年代初頭頃、そういう現実の日常ではただのサエないフリーター風味の若者が、そんな自分でもそれを唱えれば正義!ナウい!カコイイ!というわけで、ロックコンサートのような反原発運動やらエコロジーやらに身を投じるのが流行った時期があった。当時のもはや若者からはそっぽを向かれ死にかけ状態だった左翼論壇(特に『朝日ジャーナル誌』あたり)は、そういう若者を「今とき若いのにこんな素晴らしい人たちが大勢いる!」と大真面目に大絶賛で擁護迎合礼賛してたもので、少なくとも俺は、当時そういう文章を目にするにつけ、他ならぬ「若いの」の一人として気持悪く感じてならなかった。安易にネット世論を高評価する人間を見ると、図式に関してはそれと一切変わりゃせんのではないか? と感じている。