電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

あの共同性はもう戻らない?

五郎氏の『宇宙戦艦ヤマト』から、石光真清『城下の人』シリーズ、司馬遼太郎坂の上の雲』のナショナリズムを思い出しての感慨に関連して少し気づいたこと。
確かに『城下の人』シリーズも、日露戦争あたりまでは維新以前の武士道へ自然な愛着と輝かしさ(それは前近代的な封建遺習だっ、と言われたって、生まれた時からそれに馴染んできた人間には、率直に愛着あるものなのだ。抑圧された少数民族文化と同じである)への記憶から始まって、当時の日本が抱える対外的危機(特に直接的な対象は、地理的にも場所が近く権益のかぶるロシアで、大津事件の直後に明治天皇自らロシア側に謝罪に行ったのを見守る様子には、少なくともこの当時は天皇と国民(の命運)がマジで一体だったという感じがした)の切実さは伝わってくるものの、日露戦争に勝利し大正になって、既にできあがった大陸権益の防護が目的となった状態でロシア革命直後の混乱の満洲に向かう最終巻など、そういやどこか、シリーズ長期化で何か初期の切実さが失われたヤマトシリーズを連想しなくも無い?
西崎プロディユーサーには悪いが、実は「もう今やヤマトのリメイクやってもウケない」というのが我が自論。と、いうのは、どういうことかというと、かつてヤマトのアニメがヒットした70年代末ってのは、まさにもはや土着日本の共同性やそれを下地にした使命感への結束のロマンみたいなもんが失われつつあり、むしろそのことへの郷愁があの作品のヒットを生んだんじゃないのかなあ、と。そういや当時、旧国鉄が「ディスカバー。ジャパン」なんてキャンペーンをやってた、そう、故郷の山河をわざわざ(まるで海外の秘境を探訪するように)「再発見」するってコンセプトだったんだよな、と。
で、ヤマトは、故郷の村とかの実体的な共同性への郷愁が根底にあり、それが美化されロマンとヒロイズムの拠り所となってたわけだが(沖田艦長の最期の「地球か、何もかもみな懐かしい」!)、今やアニメに限らず若者向けの表現ってのは、ほとんどことごとく、集団や共同体に馴染めない個人の葛藤の方がテーマになってて(あるいは集団や共同体の中での世渡り?)、そっちで際限なく進化を続けてるわけだから。
こりゃいかにガンダム以降出てきてエヴァンゲリオン以降定着しきった解体が取り返しつかなく大きかったか、っていうことか……
70年代末といえば、当時人気のあったアリスが、コンサートでハンド・イン・ハンドって言って客席で見知らぬ者同士が手をつなぐのを呼びかけたが、現在じゃ、ネットや携帯の普及を見る限り「孤立を紛らわせるために(時に未知の)他者を求める志向」自体は不滅でも、これが流行るとは思えない。なぜなら、その現在なおネットや携帯で求められる連帯ってのは、じつは同じ村とか学校とかの共同性の下地が無く、あっても「日本国民」ってくらい大きくて曖昧な、遠方の他者の方が都合よいからではないか、と感じてみたり。