電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

福井晴敏『終戦のローレライ』やっと読了

詳しいことは映画も観てからまた書きたいが、一点のみ。
(いきなり要点のネタバレのひとつを書くので、未読の方は注意)
第二巻あたりまで、これはライトノベルではない、真面目な戦争小説なのだと思い込みながら読んできて、実際かなり感心してもいたのだが、第三巻の半ばあたりからだんだん「う〜ん、所詮は福井も俺と同年代の人間か……?」と感じることも禁じえなくなってきた。
それが決定的になったのが、同書の黒幕、浅倉大佐と、実はその走狗だった田口兵曹長の過去、孤立した南方戦線の飢餓の島での「食生活」にまつわる回想場面。
要するに人肉食の話で、仕方の無いことだが、ここでどうしても、史実の一次情報から作られた大岡昌平の小説『野火』や、深作欣二の映画『軍旗はためく下に』には及ばない(恐らく、福井もその辺を参考にしたと思われ)という感に陥ってしまった。
この場面で、それまで窮乏しつつも鉄の意志で人間性を保っていた浅倉が、遂に人肉食に踏み切らざるを得なくなって「地獄の釜の蓋が開いた」「後戻りできん」とか言うのだが、この台詞が、ただ仰々しく白々しいばかりで、人肉を喰うことの何が怖いわけ? というのが伝わってこない。
いや、わたしも福井と同様、人肉を食わざるを得ない窮乏など体験したことはない。
だが、大岡の『野火』や、深作の『軍旗はためく下に』から、直接そう語っているわけではないが、感じ取られた「怖さ」というのは、それが結局「窮乏下の異常」でありつつ、しかし同時に、それが散文的日常でもあったということではないか、と思い至る。
つまり、恐らく、本当に恐ろしいのは、人肉食という行為自体より、人肉食さえもが日常となってしまう、しかも、それが集団の場の空気によって曖昧に共有、了解されてしまうこと(人がそうしてまで生きてしまおうとすること。しかし、その意義は何なのか?)ではないのか?
自分で自分の人間性が崩壊してゆく(それもなし崩しに)過程を目の当たりにする、自分が少しづつ狂ってゆくことが、自分で自覚される、それが真の怖さではないか?
恐らく、正気と狂気の境界線というのは、平時に我々が思っているより曖昧で、意外にも壊れやすく、戦争はいとも簡単に集団の空気の中で、それをなし崩しに壊してしまう、ということでないだろうか。