電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

今は本当に21世紀ですか?

中学生ぐらいの頃、地球上で一番理解不能で、科学と進歩の21世紀には死滅していなければ絶対におかしい物、と思われてたのが、日本の家族制度における「嫁と姑の確執」というものだった。
いや、笑うな、俺は本気だった。今もだ、「嫁と姑の確執」ぅ? なんだそりゃ、もっとも前近代的で、恥ずかしい、ヌカミソ臭い、土着的な、百姓の、人食い人種と同様の野蛮な土人の非科学的な習俗じゃねえか、と本気で思ってた。
だってさ、中学生男子じゃ、当然独身だ、自分が家族を養う立場に身を置いて、実感を持って人間を想像する手材料なんかない、この世で一番自分の存在と対極にあるものだよ。
とか思ってたら、つい先頃『週刊文春』が、3週間に渡って、21世紀にも残るこの反科学的な土俗迷妄「嫁と姑の確執」を特集、ときたもんだ。
まあ、半分は、今じゃ滅多にないような極端な例をわざわざ挙げてのネタだろうと思いながら読んだが、それでも充分に、○| ̄|_○| ̄|_○| ̄|_×∞って気分になったよ。
今さらいうまでないことだが、日本の家族制度において「嫁と姑の確執」などというコエダメ臭い田舎百姓の風習が発生するのは、まず、結婚制度が当事者男女個人と個人の結婚ではなく、家と家の結婚であり、そして、多くの女性に「自分」の価値というものがなく、母にとっては息子、妻にとっては夫、さらに、姑にとっては孫、嫁にとっては子供、が、どれぐらい優れていて魅力的な人間であるかが自分自身の価値になっており、その所有権を争う、という構造にある……と、インテリくさく理論的に分析チック書くのもバカらしくなる。
さて、世のフェミニストはこの構造の問題を、どう認識しているのか? え? 「『嫁と姑の確執』も男性中心主義社会の産物」ぅ? まあそう言うこともできるかも知れないが、嫁と姑は自らそれにはまってるんだぞ、男もバカな生き物なら、「自分」がなく、息子、夫、孫、の価値にすがりつくしかない女もバカな生き物としか言いようあるまい。
――しかしである、先の『週刊文春』の特集記事内の事例には、更に新しい形の問題も提示されていた、即ち、育児をほったらかす嫁、無理に若ぶって揉め事を起こす姑、など、息子、夫、孫の奪い合いではなく、むしろ、自己本位ゆえに起きるケースのトラブルである。今後は今度はこのケースでの「嫁と姑の確執」が増えるのかも知れない。
女性が古い家族制度に囚われ幸福になれないのも困ったものだが、自立した個を獲得した途端に、責任が放棄されるのも困ったものである。