電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

目くそ鼻くそを永遠に探す

なんだか上記の、嫁と姑がどうしてもあげつらい合う構造とも関連しそうな気がするのが、この指摘。

人間ホンネを臆面もなく語ることを許されたら、まず食欲や性欲や金銭欲といった物欲(お好みならば下部構造とも)の方に行くというのは甘い考えで、現実には餓死寸前とか多くの借金を抱えているとかいったよほどの極限状況に追い詰められていない限り、真っ先に隣人の顔やライフスタイルの気にくわない部分を罵倒することから始まる
「永久保存版」 10月9日

高井氏は、そんな野暮なことはわざわざ書いてないが、ここで彼が触れたユーゴスラヴィア内戦への感慨(異物としての隣人へのあげつらい合いについて)は、高井氏がすぐ上で触れた『マンガ嫌韓流』への違和感と連結したものだろう。
そう、嫁が姑に対してでも、姑が嫁に対してでも、セルビア人がモンテネグロ人に対してでも、日本人が韓国人に対してでも、「あいつ、こんなに変」と、一度決め込んで言おうと思えば、いくらでも、言うことはできる、というだけの話なのだ。
「韓国人は世界的にもこんなにも変」と言いたがる人々は、ちょっと地球儀を見てみよう、旧ユーゴもだが、ロシア人とポーランド人の関係、インド人とパキスタン人の関係etcetc、世界にはきっと、近くて似て異なり、過去に紛争もあったゆえ、すさまじくこじれた民族関係は幾つもあるぞ、珍しくねえっての。ドストエフスキーを読んでみやがれ、ドイツ人とユダヤ人は罵倒しまくりだ、でもそれが普通、って時代もあったわけだ。
逆に言えば、例えば、あくまで例えばだが「愛知県はこんなに変」と言い出せば、キリがないぞ、トヨタの自動車に乗ってないと村八分にされる、名古屋大学卒が東大卒より偉いことになってる、結婚式で見栄を張るためだけに引き出物のレンタル屋まであるetcetc……ここで愛知県を挙げたのはあくまで一例、無限に、「東京都中野区はこんなに変」とか「マリ共和国のドゴン族はこんなに変」とか「シリウス星はこんなに変」とか、無限にいくらでもできるっての。