電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

続・世界の広さはどこに生まれたかで変わる

さて、以前世界の広さはどこに生まれたかで変わると書いたが、この仕事でも、神話って、結局その土地の風土を反映した世界観なんだなあ、と(考えてみれば当たり前のことを)再確認させられた。
例えば、エジプト神話は、緑豊かなナイル流域と、その外に広がる死の大地サハラ砂漠、という明確な自然環境の差(中間地帯というものがなく、本当に風景がクッキリ変わっているらしい)にもとづく「緑の大地に住んでる選民様の俺ら」「砂漠に住む野蛮人の異民族」という華夷秩序が反映されていると言われる。
ギリシャは群島地帯だから余り強い中央集権体制が作られず、多神教となったが、ローマでは「すべての道はローマへ続く」と言われた通り、街道の整備によって、富の集積による強権をもたらし、それが反映された世界観が発展した(と、昔、橋本治氏から聞いた)。
『名将ファイル 秋山好古・真之』のために江川達也氏にインタビューした時「井伊直弼はなぜ黒船の対応に遅れたか? それは彦根藩だからなんですよ!」という興味深い説を聞いた。いわく、幕末当時、ペリー以前にも、ロシアのラスクマンやら外国船の来航は大量にあった(「外国船撃ち返し令」というものがあったぐらいである)、だから当時でも、まっとうな有識者はちゃんと対策を考えていた、が、彦根藩(近江)は内陸だから海がない、だから井伊直弼は外国船が来るということがきちんとリアルに認識できてなかった、というのである……って、一見バカらしく思えるかも知れないが、当時は現代に比べ遥かに交通網も情報網も未発達で、誰にとっても、自分の目耳で実感できる範囲が「世界」だったわけである。交通と情報によって国土が均一にならされた(かに見える)現代に生きる我々は、ついついこういうことを忘れがちだ。
ちなみに、この『「世界の神々」がよくわかる本』の担当編集者は『名将ファイル 秋山好古・真之』と同じ方で、長山靖生氏への取材行の帰りに、ふと「ラヴクラフトって、アメリカの横溝正史みたいなもんすかねえ?」という会話をした。
ラヴクラフトや、彼の直弟子たちの作品は、ラヴクラフト自身の住んだマサチューセッツ州プロヴィデンスをはじめ、実際のアメリカの田舎町の描写がリアルになされ(その筆頭が、海神タゴンの眷族が棲む架空の港町インスマスである)、その土地その土地の伝承などが取り入れられている。これって要するに、日本に置き換えたら、横溝正史に似たようなものとは言えないだろうか? 昭和初期の都会的モダニズムを代表する雑誌『新青年』の編集者で江戸川乱歩の直弟子だった横溝は、その近代的視点でもって、日本土着の地方のドロドロ世界を怪奇風味ミステリに変換し直したわけである。
日本に住む我々は、クトゥルー神話に描かれるアメリカの地方都市もうっかりオシャレな異郷と捉えかねないが、それらは、ご当地のラヴクラフトら自身にとっては、古い土着のドロドロした匂いのする、さびれ行くアメリカの田舎像だったのかも知れない。
実際、ラヴクラフト自身、大都会マンハッタンになじめず引きこもり作家として生涯を終えたことを思うと、この解釈もあながち外れではないとも思えるのだけれど。