電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

一週間遅れの後出しツッコミ

先日、畏友河田(ばくはつ五郎)と、先週末にTV朝日でやってた、山田太一ドラマの『終わりに見た街』の話になる。
わたしは23年前の旧作版をなんとなくラストシーンだけ知ってたのでナメて斜め見にしていたのだが、戦時下にタイムスリップした現代家族のうち、戦後平和主義の下で育った大人が厭戦気分なのと裏腹に、若者の方が当時の軍国主義に染まってくという筋書きは悪くはないのだが、その若者の心情をただ台詞による説明で済ませ、工場勤労動員なり、隣組の集団訓練なり、防空壕での生死をともにする一蓮托生の同胞意識なり、体を動かしての「行動への参加」がもたらしてゆく心境の変化のプロセスを丹念に描いてくれればよかったのに、それを怠ってるのは遺憾イカン、と言ったら、河田も同感との言。
2、3ヶ月ばかり前、筑紫哲也ニュース23の「日本人の愛国心」とかなんとかいう特集で、インターネットで右傾的発言をする若者を取り上げた回(工場労働者の愛国ラッパーと、就職活動中の高偏差値大学生という組み合わせだった)もそうだったが、今のぷちウヨ若者を無理やり自分でも理解できる文脈にはめ込んでみたよーな白々しさ感は拭えない。
それより『終わりに見た街』では、いっそ戦時中にタイムスリップした現代の引きこもり青年が「戦争非協力の非国民や朝鮮人は幾らでもバカにしてオッケー」という空気に直面し、最初は戸惑いつつも、自分が指弾される側に回る事の怖さから指弾する側に回り、やがてその陶酔にハマってゆく、なんて描写でもやってくれれば良かったのだ。
確か、かつて1990年頃、西尾幹二先生は、当時話題となっていた外国人労働者問題について、「外国人が増えれば、日本人は『外国人差別』の味を思い出して良くないから外国人流入を制限すべき」という、注目すべき論陣を張っていた。
でもその西尾先生も、最近なんだか単なる差別好きの今様の若者に迎合してるだけのようにも見えなくないと感じてしまうのは皮肉な限り。