電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

断絶と連続

さて、どうも最近、わたしのこの日録は、差別が好きな人には嫌われ、反戦が好きな人には好かれているらしいが、誤解を恐れずに述べておくが、わたしは「大東亜戦争は必然だった」という姿勢を取っている。
戦争自体の是非などといえば、そんなもん当然平和な方が良いに決まっている。だが、結果と関係なく、なぜ戦争は起きたのか、それに関与した個々の人々の心情はいかなるものだったか、ということに寄り添って考える必要はある。今回担当した大東亜戦争概説史とシネマガイド&ブックガイドでは、そのような態度に務めた。
今回少しだけ心残りと言わざるを得なかったのは、字数は限られているし、この話をしだすと大幅に話が横道にそれるのでやむなくカットしたのだが、日本の戦争について語ろうとすれば、避けて通れない筈なのが、天皇と軍隊、国民の関係の問題である。
とにかく、今となっては、多くの人間が認めたがらないが、実際、なぜか、戦時中は、皆口をそろえて「天皇陛下万歳!」と言って死んだ(かつて吉田司は、小林よしのり戦争論』で特攻隊員が「お母さーん」と叫んで死んだと描いてあるのは戦後的解釈だと批判している)。そして、敗戦後の巡幸では、焼け跡の日本人の大多数が、人間宣言した天皇に万歳万歳と言って日の丸の小旗を振って熱狂した。
ミもフタもなく言って、今の日本人は、この光景を、下手をすれば保守陣営の人間でさえ、恥ずかしいことだと思って忘れたがっているのではないか?
現代のわたし個人は、人間昭和天皇、平成天皇個人への敬愛心は特に持てない。
しかし、かつて、戦後の80年代においてさえ、全国の少年院で昭和天皇の伝記ヴィデオ(「国民文化研究会」という日教組と対立する国学系の教育団体が作ったものらしい)を上映したら、収監されてる少年らが感動して更生したとか、阪神大震災後の被災地を平成天皇が見舞ったら、高齢の罹災者たちが心から感動した(村山富市橋本龍太郎が来ても、あんなに感動する事はありえまい)とかいう話は、自分がそれに共感するかどうかはともかく、無視するわけには行かんのだろうなあ、とは思っている。
本年公開の『ローレライ』では、天皇という戦後世代にとってはキモチワルイ要素を抜いた冷静なナショナリズムを描くつもりでか「天皇陛下万歳」ではなく「日本民族万歳」と叫んで死ぬ青年将校を出した。この作品はSFだからといってしまえばそれまでだが、歴史を、自分がそれに賛成するか否かはともかく、事実は事実とそのまま描く事を放棄し、理解できない歴史を無理に理解できるように歪めてしまっているようにも見えなくない。
当時の日本人は、現代の視点から見れば、圧倒的に、少ない情報と狭い世界観の中で生きていた。日本の外などまるで知らない。同じ日本語が通用し、ということは、つまり「天長さま」の支配が及ぶ範囲が自分にとっての「世界」の広さだった、ということなのだろう。だが、実は、交通と情報が発達した現代においても、一人の人間が身体的に実感できる世界の広さは大して変わってないはずである。
恐らく、戦時中の日本人にとっては、いよいよ追い詰められての自決などの際に「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬ時、頭をよぎっているのは、実体としての人間昭和天皇ではなく(というか、実際、ほとんどの日本人は天皇に会ったことなんかないんだし)、自分と同じように「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬ同じ日本人の絆を確認する行為だった、と考えるべきではないか。
本書の第9章で『軍旗はためく下に』の解説などでは、この点を意識しながら書いたが、現代の自分がそれに賛成するかはともかく、とにかく、当時の国民は天皇を中心に精神的な一体感を形成していたのであろう、という心情を説明するためにも『拝啓天皇陛下様』を取り上げることは必要であったかも知れない、イカン遺憾、と思うばかり……
今日にしてみれば、恐らく、皆が皆、天皇陛下万歳を唱えた戦時中とは、恥ずかしい過去であろう。
現代に生きる我々は、自分らを、戦時中に比べれば正しい人間だと思いたがっている。
だが、我々はある日イキナリ空中から生まれて存在しているのではないのだ。当人がそれに賛成するか反対するかに関わらず、良くも悪くも、自分の父母、さらに祖父母、その前、という、過去の歴史的連続性の積み重ねの上に、我々は生まれてきて、生きている。
だから、戦前戦中の人間を、現代の自分とキッパリ一線引いて過去の野蛮な人たち、あーいうのって困ったもんねえ、ボクは違うよと切り捨てて他人事のように批判するしかできない戦後平和主義者も、あるいは、戦前戦中いいことをした日本人だけを同族と見なし、残虐行為の類(そんなもん、日本一国に限らず、どこの国もやっている)を行なった人間の存在は一切切り捨てて見てみぬ振りし、過去の日本は一方的に正しい→今の日本の自分も一方的に正しい、と結局自己肯定が言いたいだけの人間も、同じ穴のムジナである。
かくもねじくれ曲がった歴史をたどってきた日本、されどそれが我らが祖国、今日もなんとなくこうやって生きてる我らの血肉の源なのである……