電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

真の正気になりたくば金的攻撃以外も身につけよう

昨年「惑星開発委員会」の同人誌『PLANETS』で語った内容を読み返して「こう言や良かった」と、少し補足。
まっとうな保守とファナティックなウヨの違いについて考える。それは、総合的視野に立った「人間観」の幅の有無かと。
市民運動左翼や中朝韓の「変さ」を声高に言い立てる人がいる。中朝韓は公教育でこんなデタラメな反日教育を行なっている、とか、その内容の大部分は事実である。しかし、彼らのすべてが24時間365日、狂信的な反日思想ばかりを口にしてるわけではあるまいと思うのだ、日本のことなど365日のうち1日か2日しか口にしない(でもどうせ悪口だが)あとは、日本人や他の国の国民の大多数がそうであるように、毎日学校に行ったり職場に通ったり、父母や同僚と日常的な会話をしたり、ご飯を食べたり脱糞してるのではないか、その時はタダの人のはずである。
逆に言おう。そう、今の保守イデオローグの一人に西尾幹二という人がいる。西尾氏はハゲである、これは見れば一目瞭然の事実だ。しかし、西尾氏という人物にも多様な側面がある、本領はドイツ哲学の権威でニーチェに関する本を書いてるとか、西尾氏にも日常生活はある、そこでの家族に対する態度とか、そうした他の側面を全部捨象して、ただ「ハゲハゲ」とだけ言うのは、確かにそれが一目瞭然の事実であっても、人間として失礼に当たるのではないか? そーいうことである。
そう、西尾氏の本領はドイツ哲学だった、福田恆存ならシェイクスピア他の英文学と演劇、呉智英夫子なら論語と、まっとうな保守論客は、ただ左翼や中朝韓を非難するだけでなく、別個に、本領となる人間観の基礎教養を持っていたものである。
また別の喩えをするなら、金的攻撃のみに長けた歪んだ打撃格闘家を打ち負かすには、単に金的攻撃破りばかりに徹するのではなく、むしろ投げ、締め、極めなどの総合格闘的技をもって、範馬刃牙のよーに「アンタは格闘技として不完全だ」と示してやる方が有効ということだろうか。
左翼の唱える人権思想のような人為的人工的な理性主義の産物としての主義思想がなくとも、何千年もふつーに日常生活に染み付いた親子の情や郷土への愛着心などさえあれば、人間は正気に生きてゆける、というのが本来のまともな保守の考え方で、それを保守「主義」という人為的人工的なイデオロギーにしてしまうこと自体が矛盾だったはずである。
かつての教条的な左翼は、歴史的伝統的に自然に培われた、年長者を敬うような心さえ、年功序列儒教道徳的な権威主義の悪習だと非難しまくった。それを究極的に突き詰めると、行き着く先は、老いも若きも男も女も金持ちも貧乏人も均等にならされた、無色無臭の「なんでもない人」ばかりの世の中となってしまう。そんなもんありえるか、っての。
前にも書いたが、我々はある日イキナリ空中から生まれて存在しているのではない。当人がそれに賛成するか反対するかに関わらず、良くも悪くも、自分の父母、さらに祖父母、その前、という、過去の歴史的連続性の積み重ねの上に、我々は生まれてきて、生きている、だからその時点で、どこの国のどんな人間も、すでに何らかの色がついているのは絶対に避け得ないことで、完全な無色無臭の「正気」の立場など、ありえないのである。
ところが、昨今の、自分は「正気」だという立場から、市民運動左翼や中朝韓の「変さ」を声高に言い立てる人々というのも、それを突き詰めれば、無色無臭の「なんでもない人」ばかりの世の中こそが「正気」で良いと言いたがってるように見えてならない。
マトモな「正義」とは、単なる「反悪」ではない。そもそも、ショッカーがいなければ成立しない仮面ライダーの正義はフィクションである。こういうと実にクサいが、まっとうに正義を語る資格があるのは、マトモに人生を、人を愛し、義務を果たして生きてる人だろう。でなければ暑苦しいいやな正義オタクになってしまうというものだ(逆に、例えば、自分がえっちな本を読みたいだけの快楽追求を、表現の自由などとさも社会正義であるかのように言うのもギマンだけど)。
正気っつうのは、まずふつうに良く生きることだったはずではないかと思う。
が、現代はそういう歴史的に培われたようなふつうの家庭的、土着的日常が、大量生産の消費文化、引きこもりでも生きられる資本主義快楽社会システムによってホーカイしてるのが問題なのだろう。