電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ライブドアとリクルートと薬害エイズ

堀江貴文の逮捕後、西尾幹二福田和也が相次いでこれについて書いていたが、あまり面白くなかった。西尾福田両人とも基本的に堀江のような人間は嫌いである、というか「若い」「新しい」というだけで堀江のような人間を持ち上げる世論は嫌いである(それはそれでもっともな話である)、だからといって、逮捕されて逆風になったら躍起に責めるというのもはしたないと思ってか(それもそれでもっともな話である)、西尾福田両人ともに、自分個人は堀江が嫌いだが、堀江を育てたのは今の日本だから我々は彼を笑えない云々という趣旨のことを書いている、それはそれでもっともな話である、が、特に面白くも感じられなかった。
こういう時は、直接に対象を語るより、一見遠回りなようだが、補助線を引いて、対象の成立背景を社会構造的に浮かび上がらせる手法を取った方が効果的ではないかと思える。
昨年の年頭、浅羽通明氏は早稲田大学での講義で、堀江貴文横井英樹を、平成と昭和の乗っ取り屋の違いとして並べて論じたらしい。
横井英樹といえば、ご存知ホテルニュージャパンの元経営者である、スプリンクラーや防火壁までけちった経営方針から死者33名の大火災事故を招いたため、防火責任者だけでなく経営者まで実刑判決を受けるという異例の判例を残した。その横井は、死ぬまでエンパイアステートビルの地所の所有権を持ってたそうだが「土地、建物の所有権」へのこだわりは、なるほど堀江とはまったく違う世代的背景だった。浅羽氏の講義がどんな内容だったか知らぬが、大いに興味ある。
ところで堀江貴文は東大出身でもあった。なんとなく思い出したのがリクルートの江副正浩である。江副も東大出身者で、リクルート社の前身は、江副が在学中に作った学生新聞だったという。のちのバブル前夜、江副は自社の経営に対する便宜を得るため、自社系列の不動産会社リクルートコスモスの株を政界、官界、民営化前後のNTT幹部にばらまいた、そのやり方はあまりにロコツだったので、80年代末に至り江副は逮捕された、しかし、受け取ったとされる政界官界大物の多くは逮捕を逃れれている……しかし、ここでふと思う、江副さんも東大閥のハシクレなら、株のばらまきなんてロコツな手段を使わずとも、政治家や高級官僚とよしみを得る手段や機会も、バレても穏便に司直の手を緩めてもらえるコネがあった筈じゃないの? と。しかし、それがなかったらしいということは、江副も東大卒でありながら、東大閥のアウトサイダーだったのだろう。
まさに渡辺恒雄が、自分の「知らない人」を球団経営入れるわけには行かないと言って堀江を締め出したように、政界官界財界学界の上層には、金と力を持っていようとも人脈派閥の面識という見えない壁というものがあるらしい。そこから外れた人間は、外れてる分の不利を埋めるため、株のばらまきや、違法であれ合法であれ顰蹙を買うようなM&Aに走ることになり、結果、弾かれるという構造があるらしい。
戦後の高度経済成長期の財界を支えた一体感の背景に、戦中に士官学校で同じ期だったとかいうような戦中派同士の同窓会的意識があったことは指摘されるが、渡辺恒雄がマスコミ界で保守言説の重鎮となった背景にも、戦後の50年代に共産党から転向した保守文化人(例えば谷沢永一とか香山健一とか、凄く多い)同士の同窓会的意識が強くありそうな気がする、実際、渡辺の先達だった読売新聞社長の正力松太郎にも元警察官僚としての人脈派閥が大きな力となっていることは疑いない。
ただし気をつけたいのは、こういう人脈派閥学閥云々論は、往々にして安易な陰謀史観に陥りやすいことである。だから、こう考えなければならない、まず、人脈派閥学閥政治の構成員も個々にはふつうの人でしかない、そして、ではなぜこの世には人脈派閥学閥が生まれるのか? と。
理系分野での話になるが、薬害エイズ事件の被告だった安部英教授なんてのは、まさに東大医学部閥の産物のよーな人間だった。非加熱製剤の危険性が指摘されながら放置されていた理由のひとつは、要約すると「権威である安部先生が言ってるんだから」に皆が倣った、ということに尽きるらしい。似たよーな構造ではないかと思うが、医学界には、昔ロボトミー手術というものがあった、患者の了解なく勝手に脳みその一部を切除して、患者は治るどころか機能障害に陥り、場合によってはそのせいで数年後に死ぬ例もあったそうで、被害者は12万人と推定されているとかいう(にも関わらず、訴訟になったのはたった5件だそうな)。この手術、世界的にもほどなく廃止されたが、こんなもんが放置されていた理由も、医学界の川の上流にあたる場所で権威のある人間がそのやり方を辞めずにいると、下流の系列学閥の大学病院などもそれに倣うから、という面があるようだ。
思うに、人脈派閥学閥とは、近代以前の徒弟制度が形を変えたものという側面があるのではないだろうか。近代以前、伝統芸能でも職人の工芸でも、高度な「技能」とは、一対一の関係によって相伝されるのが基本だった。でなければどうしても伝えようない、言語化できない部分があったのではないかと考えられる。しかし、この制度は当然、一人の師の個人的見識の歪み偏りを継承させるという側面もあった、これを是正させるためか、中世のヨーロッパには、職人の遍歴修行という制度があり、そのための街道までしつられられていた、マイスターの資格ある者は、建前上、どこの職人工房でも受け入れられた、という制度である。
近代的な教育制度の普及以後、こうした前近代的徒弟制度のような人脈派閥学閥制度は、タテマエ上イケナイとなっている、しかし、人は人脈派閥学閥を作ってしまうという現実がある。これを認めてものを考える必要がある。
法科大学院制度の導入は、弁護士などの法曹専門家を増やすかも知れないが、学閥主義を広める弊害の危険性を指摘する声もあり、文系であれ理系であれ、専門的な知識と技術を必要とする世界は、必然的に閉鎖的になることは、良い悪いでなく、やむを得ない側面はあるのだろう。
昨今の経済自由化、構造改革とやらは、それを機会均等にならすことであるかのように喧伝されているが、実際には、既得権を有している人間がスタートラインで有利になることは目に見えている。そして、そこから外れた人間は、今後も勢い株のばらまきやら、違法であれ合法であれ顰蹙を買うようなM&Aに走るという構造自体は、変わらず繰り返されると考えておくべきかもしれない。