電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

消えた非モテ・マイノリティ男の自己犠牲ダンディズム

今年になって、東京MXTVでは、『怪奇大作戦』の深夜再放送なんてイキなことをしてくれたが、さらに、懐かしの堺正章夏目雅子版『西遊記『西遊記II』(1979〜80年 日本テレビ系)なんてものを再放送してくれてた。
さてこの『西遊記』、この見返してみると、特に『II』になって、玉竜(三蔵法師の白馬。演じてるのは藤村俊二)が登場して以降特によくあるパターンなのが、旅の途中で、八戒やら玉竜が、現地で知り合った娘に横恋慕するんだが、その娘というのは、恋人が妖怪にさらわれただの何だので、結局、迷った末に人助けしてやる(大抵、堺演じる悟空は、最初はバカにしてるのだが、最後は手伝ってやる)という展開で、2、3回に一回は、この手の話をやってるような気がする。
重要なのは、劇中で八戒や玉竜がいっくら美少女を助けても、彼らはまったく非モテ男役が確定していて(大抵、美少女にはイケメンの恋人がいるのだから)、一切なぁ〜んの役得もないことである(この点、堺演じる悟空ははじめから超然としていて何も期待しない)。
しかし彼らは、毎回のように懲りもせず、義侠心で同じことを繰り返す。もはや、見返りを期待せせず、女性に尽くすシラノ・ド・ベルジュラック無法松の精神である。
かつてはこの手の、異形のマイノリティの姿に仮託されたモテへん男の悲哀と、それでもモテへん男なりのダンディズムを貫く姿というのは、ひとつのパターンだった。それこそ『がんばれロボコン』とかの東映ギャグ特撮でも、そんな話をしょっちゅうやってた筈だ。ずっと以前に取り上げた、山田風太郎の小説『忍法封印いま破る』もそんな感じである。
役得なき不器用な三枚目だがそれでもたくましく生きてゆく主人公、というのは、80年代のラブコメブームまではいた気がする。それが廃れたのは、90年代に入って、意地でも現世利益ハッピーエンドにせねば気がすまないギャルゲーが普及してからではないか?