電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

では、理念を形骸でなくする方法とは

このブログでは過去何度も書いたが、今や右も左も形骸化しているといえる理由は、みな口では自分と敵対する側を非難口撃しても、じゃあ国家のため、あるいは革命のため、我が身を張る気概があるかというと、まったく感じられないからである。
右でも左でも理念を盲信する狂信が良いとは言わないが、理念が何もなく利便と功利だけになると人間が堕落する。
さて、かつて思想や宗教や伝統的慣習が血肉を持って生きていた時代というのは、空理空論でなく、たとえば収穫祭なり隣組の防空訓練なり、体を動かす集団参加の儀礼性があった。それがいざという時は助け合う地域や血縁の連帯意識の拠り所にもなっていたはずである。
で、そうした「行動を伴う理念」を復活させようとか言うと、ファシズム的強制に堕する危険はある。とはいえ、わたしが数年前付き合わされたマルチ風商法の集会の昂揚などを思い返すと、本当のところは、伝統土着から切り離され、革命を起こす覇気もない、現在の砂のような大衆にも、しかしむしろだからこそ「行動を伴う理念」への潜在需要はあるような気がする。そう、それが自分に優越感を与えてくれる限りは。
カルト宗教や悪徳商法の昂揚感にハマるよりは、かつてあった儀礼性文化の健全なの復活を目指した方がよほどマシだ。ではその方途は…といったあたりを現在、宿題として模索中。
――とか偉そうに言ってる俺も、よく考えたら今年の盆は墓参り行ってねえし(←ギャフン)