電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

中心なき周縁

先に触れた以費塾同窓会で再会した面々とのさまざまな雑談のひとつにもたまたま上がったのが、「天保異聞・妖奇士(あやかしあやし)」の話題。
わたしは最近たまたま別の仕事がらみで、妖怪とか異人とかについての民俗学関係の本を読んでたためもあり、「小松和彦とか宮田登とか網野善彦とか赤坂憲雄とかの本を愛読してる人には面白い作品だよね」と言ったら、「いや白川静も入ってる」と返された、確かに(こっちは漢字の語源とか言語学のハナシ)。
「あやかしあやし」では、直接そう描写されている部分は少ないが、日本で妖怪と呼ばれるものの多くは、じつは、辺境の民であるとか、当時の武家&村落の共同体秩序からはみ出した人間そのもののメタファーだったことが意識的に暗示されている。
この点、今回は久々に、竹田青磁プロデュースの社会派的志向と、会川昇脚本のマージナル志向が絶妙の化学反応でうまくマッチしたようだ。
んが、このアニメ、わたしのようなへそ曲がりには、やはり一点不満がある。
主人公をはじめ主要登場人物が、マージナルな視点の側の人間ばかりで、逆に、当時の「常民」、すなわち一般人、普通の人間たる、民百姓たちのリアルな心情を描くことがいまいち抜け落ちていないか? ということだ。
なにしろ、主人公、竜導往壓は元武家なのに入墨者の浮民、そのお仲間は、山の民(蝦夷の末裔)、破れ神社の神主、遊郭住まいの不法入国外国人、歌舞伎役者の後継ぎ崩れ、あとは、蘭学者の旗本もいるが、まあ大雑把に見て、江戸時代当時の身分制秩序のタテマエから考えたら、マトモな階層の人間がほとんどいない。
こういうマージナルな人々に着目したのは、「江戸時代とは封建身分制秩序で、少数の武士階級に多数の農民階級が支配されていた」という手アカのついたイメージを覆し、江戸時代すでに身分制秩序の枠を越える自由な人間も少数ながら存在しえた、という新しい史観視点を提示したいがためだろうということはわかるし、その意義も認める。
しかしだ、それでも当時、圧倒的多数の日本人は、武家社会と農村社会の枠の側にいた、そういう人間が、ほとんど非常民の主人公たちと敵対する悪者としてしか登場しないのことには、逆説的な違和感を覚えてしまう。
無論、会川昇もバカではないから、劇中、安易に異界を美化はしてもいない、むしろ、うっかり現実の世界より「ここではないどこか」に惹かれてしまう自分たちオタク人種への自嘲と戒めを意識している感も濃厚だ。
前回は「山の民」の自由さに憧れる定住農耕民の若者に対し、勝手な幻想を抱かれた側が、どこにでも行けるってことは、逆に言えば、どこも帰るところがないってことで、どこであれ、逃げ出した先に楽園なんかない、という現実を突きつけるという、非常に教育的なお話にはなっていたけどね。