電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

多数派が定住しなければ世の中は回らない

そもそも、明治期に柳田國男が日本民俗学を創始し、日本人の多数を占める、定住農耕民としての「常民」の概念を作った当時、なぜそれが求められたといえば、それまで「日本人」などという概念はなく、地方ごとそれぞれに「信濃の民」や「薩摩の民」や「尾張の民」だったものが、明治維新で初めて「日本人」という概念が生まれたが、さて、では我々「日本人」とはいかなるものか? と、自分自身を理解するためだったのではないか?
かくして柳田は、各地方ごとに違いはあれど、日本人とは、おおむねのような民である、という常民概念の輪郭を描き出した。現在の視点で、これをしょせんは明治帝国主義国家の政策に寄与する行為、と貶めるのはたやすい。が、明治当時とは、西洋列強の東洋進出に対抗するため対外的に統一的な国家と国民意識を作ることが避けがたく要求されていた時代だ。
柳田の著作を読んでると、じつは柳田自身、定住農耕民としての「常民」の世界より、山人や妖怪の世界に憧れを抱いていたことがバレバレなのだが、表向きは、新興産業国家たる明治日本の農政官僚としての使命をまっとうした。
……と、それから数十年、戦後の産業構造の激変は、「常民」の概念を変えた。そもそも農業従事者が圧倒的に少なくなり、皆がサラリーマン世帯ばかりになっては、従来の民俗学の思考も方法論はなかなか通用しない。
そんな1970〜80年代の時期になって起きたのが、先にあげた、小松和彦宮田登網野善彦赤坂憲雄などの「異人」「辺境」「非常民」に着目したマージナルな民俗学、とくに、定住農耕民としての「常民」の世界からはみ出した者たちのメタファーとしての妖怪論だった。現在では、土蜘蛛も天狗も酒呑童子も、大和朝廷から僻地に追いやられた民の暗喩だったことが良く知られている。70年代の伝奇小説もこの流れの影響下にある。
しかしである、こういう、「異人」「辺境」「非常民」に着目したマージナルな民俗学ばかりが、その奇をてらったカッコよさゆえ普及する一方、本来の日本人多数、「常民」とはいかなるものかを地道に考える民俗学は、停滞の一途を辿ったようだ。大月隆寛の『民俗学という不幸』(isbn:4787230514)は、本来、それを嘆いたものだった。
以前も書いたが、浅羽通明『右翼と左翼』(isbn:434498000X)の一節にこうある。

おそらく「自由」「平等」の思想は、人間が求めるあり方の一面しか充たしてくれないのでしょう。縛られず、序列づけられず、個として生きたい欲求と同程度に、人間は、崇敬できる権威から自らの使命を与えられ、世の中の序列のどこかに正しく位置づけられたい欲求を持っている。そうされてこそ、人は生きる意味に充たされ、安心立命できるのですから。しかし、「左翼」の思想は、解放闘争の戦列に加わるかたちでしか、この充実を与えてくれないのではないか。(p237)

江戸時代も確かに自由を求める民は数多くいたろうが、それ以上に、自ら身分制秩序の枠に安住しようとした民も多かった筈だ。それもまた、弱い存在が生き延びるための手段である。
「あやかしあやし」では、武家社会秩序に尻尾を振る側の人間はほぼ悪者となっているが、実際には、弱者なるがゆえ、武家社会秩序に尻尾を振り、その代わり、浮き草のような非常民にはできない忠義心を発揮した者だっていた筈だ。それを単純に責められるか?
幕末に活躍した新撰組などその良い例だった。近藤勇土方歳三も、元々は多摩の田舎の百姓あがりである。それが幕末期、フヌケた武士よりはるかに武士らしい(裏を返せば狂信的な、ともいえるが)、滅私奉公の忠義心を発揮したのは皮肉としか言いようあるまい。
……とか、思ってたら、本日放送「あやかしあやし」に、ついにその、侍に憧れる百姓あがり、ドカタ歳三が登場した! よし、ちゃんと考えてるのか?
さて、武士道を捨てた男、竜導往壓と、武士に憧れる百姓、ドカタ歳三の対峙やいかに? 皮肉な小気味よさで見守っている……