電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

噂の真相と、もっとヒドい実像

一部でジャーナリスト専門学校(ジャナ専)の学生時代の悪事のホンの一部が暴露されてしまったが、甘い! じつは、この話にはオチがある。卒業式での一件は、当時、講師の一人から、とある雑誌で、実名こそ出されてないが「このようなバカ学生がいた」としっかり書かれてしまったのだ(笑)。あとで後輩から教えてもらったのだが、自分が直接教わった講師でもなかったし、誌名までは控えてないけど。
もっとも、卒業式の件など軽いもので、もはや15年ぐらい前となればさすがに時効だろうから、さらに学生時代の悪事の「一部」(とてもじゃないが書き切れない)を、もう少し詳細に自白しておこう。

  • 1991年末にジャナ専に島田雅彦がゲスト講演に来たが、客席の一番前に陣取り、質問タイムになると「島田さんも参加した湾岸戦争反戦声明について西部邁などが批判を寄せていますが」と、当時当人が一番嫌がるであろう話題を切り出しておいて、そのあとヌケヌケと「優しいサヨクのための喜遊曲」の文庫本を出してサインをねだり「『祝・ソ連崩壊』と書いてください」と頼んだ。島田氏は物凄く嫌そうな顔でしぶしぶサインした。
  • 1992年時の学園祭で、当時の有害コミック問題(山本直樹作品が発禁になったりした)を考えるイベントシンポのようなものを開催。それはいいんだが、で、学祭期間中、人目を惹こうと、取り上げているエロ漫画の、それもヤバげな場面のコピーを学内の壁や廊下やトイレなど各所に貼りまくり、教務課に呼び出され厳重注意を受けた。
  • 1993年当時、まだ直木賞を取る前の重松清がジャナ専の講師に来ていた。で、飲み会での印象から、一方的に「重松先生は一部学生に馴れ馴れしくすり寄って、わざと留年させ、学生の自立を阻んでいる」と決めつけ、これを理由に後日、上半身裸で講義に乱入して勝手に演説し、講義をブチ壊しにした。しかし、重松先生もさすがはプロで、取り乱した態度は取らず、講義を受けていた学生相手に「このハプニングをレポートにして欲しい」と呼びかけ、乱入をむしろ授業のネタに活用してみせていた。
  • 卒業後の1994年当時、本校舎最上階の教室を使っていた「研修課」に何度か顔を出したが、いつも正面から来ず非常階段側から来るので、ついに同教室裏手口の扉の前に「佐藤侵入禁止」と貼り紙された。
  • 1990年、これはジャナ専に入る前の浪人時代の話。当時浦和にいたが、当地で日教組大会が開催され、これに抗議する右翼が大量に終結、毎日大音量を鳴らして街宣車で市内を走り回り、とにかくうるさくてかなわなかった。そこで文句をつけてやろうと思い、B全版程度の大きな用紙に「バカ」と赤クレヨンで大書して街宣車に向けて広げたところ、街宣車から右翼の人が降りてきて「バカとはなんだ!!」とつかみかかられそうになったが、近辺にいた私服公安刑事の制止で難を逃れる。が、私服公安刑事には顔写真を取られ、こともあろうにVサインして撮られた。浅羽通明氏と知り合ったばかりのころ、自己紹介がてらこの話を教えたら、受験勉強そっちのけのバカモノの例として、同氏の個人ニューズレター『流行神』に掲載された。

――こうして書いてみると、どう考えてもアホだ、アホとしか言いようないw
(しかも、覚えてないとか、隠す気はないが言われたら気づくネタがまだあるはず)
タイムマシンがあったら、思いッ切り15年前の自分に蹴り入れてやりたくてならん。まあ、今も変わらんという説もあるか…?
あ、ちなみに浅羽さんの『流行神』よりぬき編がついに6月末に幻冬舎から発売だそうで。当然、俺の話など載るわけはないが、2月に以費塾同窓会があった時、上記の話をしっかり覚えていた人がいたなあ。
そういや関係ないけど、先のサイゾー6月号の同じ特集記事中の少し前のページに、ジャーナリスト専門学校時代の恩師の一人が登場して小谷野敦氏と対談しとるな、まさか同じ雑誌に載るとは、どういう奇縁だw