電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

戦後が舞台の戦争なき特攻映画

ついでに映画版『日本沈没』昭和版と平成版のDVDを立て続けに観てみる。
昭和版については多くのことが語られているが、これは本当に「日本人・日本民族」を描ききろうとした、「戦後が舞台の戦争なき戦争映画」である。もっとも、あの空気感は、まだ作り手に戦争経験世代が少なくなかった1970年代ゆえにかろうじてなしえたものだ。
平成にこの空気は無理だが、一個人的には、平成版は予想していたよりは好感が持てた。
平成版では原作と昭和版の重要人物である「渡老人」は登場しない。実際、児玉誉士夫のようなフィクサーは平成の世に現実にはいないのだから(強いて言えば川内康範ぐらいか? 渡辺恒雄中曽根康弘フィクサーに見なせるかは微妙)、今やあからさまな架空の物となってしまうものを知ったかぶりで描いてくれても困る。
代わりに、古い日本の土着庶民の感覚の代表とされ、沈む日本と運命をともにする覚悟を決めているのが、主人公の田舎の地味な母親となっている。これは嫌な感じがしない。
当初「田所博士がトヨエツかよ」と思ったが、田所博士のキャラクター自体を変えた結果、豊川悦司のイメージが意外によく合ってくれている(昭和なら岸田森あたりが演じるキャラクターのようなイメージだろうか)
柴咲コウのような美少女が消防庁のレスキューにいるかよ? というツッコミはさておき、人命救助にあたる人間を中心に据え、その日常を描いた点は『海猿』と同様好感が持てる。
ラストで主人公が、特攻兵器人間魚雷回天のごとく生還できない自己犠牲に身を投じる展開は、よく考えてみれば同じ樋口真嗣監督の『ローレライ』と同じか。
いささか図式的ではあるが、これは東宝特撮映画(かつてそのスタッフ・キャストは東宝戦争映画とほぼ共通だった)の王道だ。
敗戦の記憶も濃かった昭和29年当時、初代のゴジラを諌めるため、平田昭彦の芹沢博士は自ら人柱となった。人間が神の如き自然の脅威に対峙するには、自らの命ぐらい出さねば釣り合わない、というのが、古来の日本人の自然観だったのである。