電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

人は毎日暴力をふるって生きている

この際ハッキリ述べておくが、「空気読め」は暴力である。
だが、暴力だからイケナイ、などと陳腐なことを言う気はない。それを言うなら、人間と人間の関係はすべて暴力だ。
わたしも毎日暴力を振るって生きている。西友地下食品売り場で通りすがりの見知らぬおばさんとぶつかりそうになり、内心で(おばさん、どけよ)などと思うことが毎日あるが、内心でそう思っているだけであってもそれはやはり暴力だ。だが逆におばさんのほうも(ナニよ、こっちは小さい子供を連れた善良な主婦よ道を譲りなさいよ)と思っているかも知れない、それもまた暴力なのだ。
だが、そんなことでいちいち「どけよオバサン」などと怒鳴っていてはキリがないので、ただ気まずい顔をして道を譲ろうとし、何事もなく買い物を続ける、しかしこれもまた、西友地下食品売り場の幅80センチの通路をめぐる戦争なのである。
これは一切冗談ではない。
クラウゼヴィッツは戦争は政治の継続であると唱えたが、逆に言えば、政治(自らの勢力を正当化し、その利益を拡大しようという行為)それ自体には、常に暴力が内包されていると考えられる。その手段が、流血沙汰の腕力によらないというだけのことだ。
世の中に、腕力に訴えない暴力はいくらでもある。
世の消費者金融が「恐いサラ金」のイメージを払拭するため若い女の子を使った広告・CMで「私たちは善良な企業です、わかってよ、ね」と迫るのも、手段としての暴力の一つの形なら、朝日新聞社の『AERA』が、毎週のように「○○弱者」「××弱者」と「弱者」を捏造してまで「僕らは弱者の味方なんです、わかってよ、ね」と迫るのも、手段としての暴力の一つの形だ。
だが、繰り返すが、暴力だからイケナイ、などと陳腐なことを言う気はない。
問題は、それに対する自覚があるかないかの問題だ。
人を殴れば当然相手も傷つくし、同時に自分の拳も痛くなるし汚れる。殴らずに怒鳴るだけでも同様だ。
だからわたしは、通りすがりの見知らぬおばさんとぶつかりそうになっても、いちいち「どけよオバサン」などと怒鳴らず、気まずい顔をして道を譲ろうとするだけで済ませようとするのである。ほかの人間も皆そうだろう。
さて、この場合は、わたしと、通りすがりの見知らぬおばさんの一騎討ちである。すなわち、暴力の主体が明らかになっている。だから傷つく相手も、自分が傷つける主体であることも自覚できる。
しかし、「空気読め」という暴力においては、暴力の主体が明らかではない。
人に向かって「空気読めよ」と言う人間は、大抵、自分個人の感情として、自分から見ての「空気を読まない人間」への違和感を表明しているものだが、それを自分の意見として「俺に従え」ではなく「空気に従え」と言う、それがイヤラシイから困るのだ。