電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

すべての物語は固有のナショナリスムから逃れられない

話をバテレンの国ではなく我々自身の日本に置き換えるなら、『拝啓天皇陛下様』の渥美清演じる山田二等兵のような、戦前戦中の日本人が持っていた天皇制への信仰心は、現代に世界普遍的な目で見れば、ドストエフスキー夜郎自大なロシア賛美と変わることなく、ひたすらこっ恥かしいだけのシロモノだろう。
それでも、渥美清演じる山田二等兵は、良くも悪くも、ある時代の日本に実在した人間像である。それを戦後の平和しか知らない日本人が安易にバカにできるのか?
以前も書いたが、我々人間は皆すべてある日いきなり空中から生まれてきたのではないのだ。いくら、どこの国のナショナリズムも等しくくだらないと気取っても、自分がたまたまその国に生まれ、その父母、その祖父母もその国で生まれ育った、という歴史的連続性の産物として自分が存在することは覆せないのである。
前述の『伝説の「武器・防具」がよくわかる本』では、中世フランスの騎士道文学である「ローランの歌」で主人公の英雄ローランが使用した剣デュランダルを取り上げた。
この「ローランの歌」はスペクタル文学としては血わき肉躍る作品だが、本文でもハッキリそう書いたけれど、ミもフタもなく言ってしまえば、十字軍時代のキリスト教プロパガンダ文学である(なんせ、イスラム教徒はまるで悪鬼のように描かれている)。
だが、だからくだらないなどとは言えない。だからこそ、少年ジャンプ漫画のような下世話なヒロイズム全開の面白さがあるとも言えてしまうのだ。
『伝説の「武器・防具」がよくわかる本』執筆に際しては、世界史の参考書を引っ張り出し、ヨーロッパの中世史を読み返した。で、考えてみると、「ヨーロッパの中世」が西ローマ帝国の崩壊からルネサンスまでとすると、じつに「中世」が一千年も続いたことになる。ではその一千年とはなんであったかというと、欧州各国各民族固有の神話伝承が、キリスト教によって一色に塗りつぶされてゆく過程だった、と見えなくもない。
聖剣を振るったアーサー王ジークフリートは、ヨーロッパがキリスト教化される以前の英雄だったのである。
現代に生きる我々には、アーサー王ジークフリートスサノオミコトも関羽も大昔の伝承上の英雄、ということで等価に見えるが、近代以前、その時代に現役の英雄で、世界のどこの国にとっても英雄と呼ばれえる英雄など、ほとんどありえなかった。
だから言う。ドストエフスキーは、ただの偏狭なロシアナショナリスト作家である。でも、だからその目指す理想像、ヒロイズムも明確で、わかりやすく、面白いのである。
だいたい、どうあっても差別的にならず、万人に平等な内容の「普遍的な正しさ」が目的の文学があったとして、そんなもん、どこが面白いかっつぅの。
ジャーナリスト専門学校時代の我が師匠の一人は言いましたよ「愛は差別である」(→かけがえのない愛情の対象と、それ以外とを差別することからすべては始まる)と。
つまり、すべての文学、物語は、差別から生まれるしかないのだよ。