電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ネモ船長の末裔

今やっている『ガンダム00』は、歴代ガンダムで初めて「アメリカ」や「IRA」など、実在の国家、勢力が実名で登場する。それこそ、20年後に観たら、劇中の固有名が現実とまるきり変わっているかも知れない。
ガンダム00』は「どこの国にもない超兵器を持つ者が、軍事力でムリヤリ世界平和を実現させる」という矛盾がテーマらしい。
すでに一部で指摘されているかも知れないが、このテーマは、案外古い。
一例をあげれば「潜水艦」など実用化されていなかった19世紀末、神出鬼没のノーチラス号を駆って大英帝国の植民地侵略戦争に立ち向かうネモ船長を描いた『海底二万里』、これと同じくジュール・ヴェルヌを原作とするSF映画『空飛ぶ戦闘艦』、比較的近年のものなら、神出鬼没の原子力潜水艦が各国に力づくで核廃絶を呼びかける『沈黙の艦隊』もそうだ。
ガンダムといえば、前に『ガンダムSEEDデスティニー』(デス種)が始まった時は、ちょっとだけ期待した。前作の副主人公アスランらが今度は一国の指導者となっているのだが、国家指導者の立場でも戦争を止めることができず苦悩したりする展開が描かれたからだ。
たいていのアニメは「大人・権力=悪 VS 子供・巻き込まれるだけの弱者=正義」という単純な図式を取っているが、主人公が権力側で苦悩するのは新しい、と感心した。
が、これは買いかぶりだったようだ。中盤以降、旧作の主人公で、退役して平和な余生を送っていたキラたちは、対立する二つの勢力の間に、停戦を叫ぶ第三勢力として割って入るのだが、これがまるで、絵空事のキレイゴトにしか聞こえず、説得力ゼロなのである。
現実の戦争に身を投じている人間は、自分の陣営に、自分の守るべき妻子もあれば財産もある、だから退くに退けず真剣なのではないか。どこにも所属せず何も背負わず余生を送ってるだけの人間が平和を唱えても、そんなもん、まるで空理空論でしかない。
この点『ガンダム00』では、主人公セツナ・セイエイが属する組織ソレスタルビーイングが、タダの善意のボランティア団体ではなく裏もありそうな集団で、劇中でもツッコミが入りまくっているし、セツナ自身も、かつて自分が幼児期に戦争でひどい目に遭ったので、復讐鬼のごとく各大国の軍事力を挫いてみせることに執着しているらしい、という私怨的動機が見える分、まだしもウソくさくない。
そう、『海底二万里』のネモ船長も大英帝国に祖国を奪われた復讐鬼だったし、『空飛ぶ戦闘艦』のロバー(ロビュール)は完全にキチガイとして描かれていた。こういう人間が言ってる言葉なら、たとえ間違っていても、そいつにはそれを言わざるを得ない何かがある、という説得力はあるのだ。
――だが、実際問題、いかに高潔な志によるものであれ、力づくで正義や理想を実現させるのがうまい手かといえば、そこは疑問である。
と、いうのは、世の中は一部の為政者だけでなく、膨大な数の下々の民草があって成立している。上が一人で勝手に正義や理想に燃えても、一人で空回りするだけでついてくる人間がいなければ、正義や理想を一時的に実現できても、その維持は難しいし、下々の民草を脅して恐怖心で従わせても、自発的意志で動かせるのと比べて効率が悪い。
正義や理想なんぞに欲情して萌える変態だけでなく、健康なフツーの感性を持った下々の民草が自発的に動くようにするには、それなりの「鼻先のニンジン」が必要である。
旧ソ連では政府に敵対する人間を密告することが奨励され、共産党の忠犬はエラいさんに頭をナデナデしてもらえた。ナチスはもっとうまく、ユダヤ人や共産主義者を狩る我々は、ただゲルマン人であるとゆーだけで(なんの努力もしなくても)優秀な民族、という「優越感の快楽」を与えた。
下々の民草を無視して勝手に正義や理想を追うものは、往々にしてドン・キホーテと化す。