電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

相対的な世界観

で、今度はまた別のある用で、ジンギス汗のモンゴル帝国による西方征服について調べていて、ふと以下の文章に行き当たった。

この西征は、意外なところで中国の歴史にも影響を及ぼすのである。というのは、西征をつうじて、モンゴル族は中国を制圧する前に、中国のそれに匹敵する高度の文明が世界各地に存在することを知ってしまったからである。彼らにとっては、中国の文明はもはや唯一最高のものではなく、幾つもある文明の一つにすぎず、それに心酔同化される必要はなかった。こうした認識が彼らの中国支配の在り方に影響を与えないはずはないだろう。
『物語 中国の歴史』寺田隆信(中公新書

これは興味深いと思った。
歴代支那王朝の中では、元朝清朝はいずれも漢民族ではない異民族王朝だが、その支配政策は大きく違う。
蒙古族元朝は、漢民族の文化・制度を取り入れず、色目人(ペルシアなどの西域の人間、交易に長けたイスラム教徒が多かった)を重用したという。が、満州族清朝漢民族に辮髪というファッションを強制したものの、それ以外ではみずから漢民族の文化・制度に同化した。
十九世紀に入ると、これが清朝の命取りになる。要するに、漢民族の持つ中華思想のダメな部分を率直に受け継いで、欧米の白人帝国主義諸国をいつまでも蛮族の夷狄扱いして、日本のように節操なく西洋近代文明を取り入れようとせず、そのために列強諸国の食い物になるのである。
では、元朝清朝と違う道へ進んだのはなぜか? という理由が上記引用の解釈となる。
満州族は、明王朝を滅ぼして北京に入城し、歴代中華王朝の文化に触れたとき、自分らは田舎者だと萎縮してしまったのかも知れない。しかし、蒙古族は、世の中には中華以外にも良いものは幾らでもあると知ってしまっていたので、中華文化にこだわらなかった、と。
で、以下、例によって牽強付会の我田引水だが、この論点構造はかなりいろいろなものに応用が効く気がする。
それこそまさに、先日2月9日の日録「普遍性とは何ぞや」で触れたような「東浩紀さえ読んでりゃよい」「ポスト構造主義さえ読んでりゃよい」という姿勢は、中華文化しか知らない(知ろうとしない)満州族清王朝と同じではないか、となるw