電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

文系男子より趣味が男らしいかも知れない腐女子

先日、中島梓栗本薫)の訃報が流れたのち『週刊文春』に竹宮恵子による追悼文が載っていた。論点は無論「BL・腐女子(この言葉が普及してから、やおいって言葉は衰退しつつあるな…)の元祖」世代としての栗本薫の業績だ。
竹宮いわく『私たちは戦後の男女平等教育を受けて育ちましたが、現実は違う。』、つまり、制度としての"女性らしさ"の束縛という理不尽がまだまだ横行していた。そこで彼女らは『性差ではなく性格で』攻受が決まる少年愛ものを書くようになった云々…との次第。
通俗的な解釈として、いわゆる腐女子、つまり男同士の同性愛の話を好んで消費する女性というのは、男女の恋愛劇は自分を女性側に投影することになり、当事者的に女性の嫌な部分を直視したくないから男同士の同性愛の話に惹かれるのではないか、とか言われる。
はたまた、この分野の専門家としては古株らしい栗原知代という人は、かつて1990年代の初頭『CREA』の活字特集で、BL文学を愛好する女子というのは「無意識のフェミニスト」で、制度としての"女性らしさ"の束縛に反発しているから、男女の恋愛劇より男同士の関係の方が没入できると述べていた。
実際がところどうなのか、何しろ自分は男性であるからしてよくわからない。
しかしふと思った。
多くの場合、男女の恋愛劇というのは、惚れた腫れたといった「感情の話」が一番のメインになる。
だが、ド素人の自分がぱっと思いつく限りでも、腐女子に人気を誇ったやおい元ネタ作品といえば、古くは『キャプテン翼』『聖闘士星矢』『スラムダンク』あたりから『W』以降のガンダムなど、惚れた腫れたといった純粋な「感情の話」の要素は本来は乏しく、同じスポーツでのチームメイト同士とか、軍隊での戦友同士とかの間での同胞愛的な結束や、先輩後輩の上下関係や、ライバル間の好敵手的な友情がメインの作品群だ。
でもそれって、何を今さらな話かも知れないが、本来フェミニズムが大嫌いなはずの「ホモソーシャル」じゃないの?!

腐女子の方が男らしい時代?

つまり、何を今さらな話だが、純粋に惚れた腫れたの「感情の話」ばかりが描かれるラブコメエロゲーを愛する男子オタクより、そういう「共通目的のため結束する男同士のドラマ」を愛する腐女子のほうがよほど男らしい! という逆説的な図式になる(まあ惚れた腫れたの「感情の話」ばかりのBLを好む腐女子もいるのかもしれないが)。
そういえば昨今は女子の間で「戦国ブーム」なんて言われるじゃないか。
戦国武将の物語なんて、主従の忠義だの、家柄や故郷への同胞愛だの、武勲を取るか家族や恋人を取るかの葛藤だの、近代平等思想に真っ向から反するお話ばっかりだ。
しかし、ミもフタもない話、「平等な近代人」同士の惚れた腫れただのといった感情の話のドラマより、そういう話のほうが俄然ドラマチックで面白い、ということだろう(現実に当時者としてそういう状況の中で生きるのは大変だが)。
かつて、大塚英志宮台真司は、少年マンガの典型としてある番長マンガの物語パターン、すなわち、主人公が力で敵対者を従えて自分のグループを拡大してゆく構図の単純さに対し、並列的な人間関係のドラマそれ自体を描く少女マンガのほうが高等だと説いた。
しかしである、まあ、以下はあくまで一個人の好みであって、わたしにそういうものを否定する権力もないのだから「世の中の端でバカが一匹で何か言ってる」と思って流して欲しいが、わたしは映画でもマンガでも文学でもなんでも、惚れた腫れたの「感情の話」ばかりがメインの作品というのは、まるで退屈にしか思えない(←こういうのを恋愛感情の機微と繊細なる女心など理解しようともしない一生童貞センス人間のクズと言うよりないことは確定なのだが)。
わたしは俄然『海猿』とか『プラネテス』みたいに、多くの人間が共通の仕事に取り組む過程での地味な努力や挫折や衝突、それらを経て責任感を身につけたり信頼関係が構築される…というお話のほうが面白いに決まってるだろ! と考えてしまう。
一見そういうご大層なホモソーシャルっぽくはない『木更津キャッツアイ』も、単なる仲良しサークルではなく「草野球と泥棒」という首から下の共同行動が中心にある。野球はチームスポーツだし、泥棒はみんなで犯罪行為をやるというリスクと秘密を共有するものだ(ただし、この作品では、野球で試合に勝つことや泥棒で営利を得ることより、それらをただ純粋に楽しむことが目的、というのが重要なポイントだが)。
そういや、共通の課題に向かう男同士の信頼関係構築のドラマという側面を強く持ち、わたしがゼロ年代の作品ではかなり高得点を付ける『仮面ライダー龍騎』の脚本の小林靖子も『鋼の錬金術師』の原作の荒川弘も女性だ、と気づく。あと『レディ・ジョーカー』など、犯罪ドラマという形で男同士の信頼関係の小説を書いてきた高村薫も女性である。
この意外性について人と話をしたら、今は男が男同士の信頼関係を描くのには照れが入ってしまい、案外と女性の作家のほうがそれをストレートに描けるのかも知れない、という話になった。
しかし、男でそうした話を当事者意識を持って描ける人間が目立たないのはちょっと情けない。