電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ホモソーシャルは本当に悪か?

まあ、今や躍起になってホモソーシャル批判を言い立ててるのは、女性のフェミニストより、むしろ「僕はああいう汗臭いマッチョDQNと違うんです」って顔をすりゃ女性受けがよいと思ってる男性インテリだけじゃないのぉ? と感じる。
それを言えば『咲-Saki-』も『けいおん』も(運動部ではないが)共通の目標のため同性ばっかりでチームを組み、その中での信頼関係やライバル的友情がテーマということでは「女の子同士のホモソーシャル」ということになってしまう。これもケシカランのか?
(余談だが、なんで同性ばかりでつるむんだよって? そりゃ当然、異性が絡むとサークルクラッシュするからだろw)
ホモソーシャル的なものを一切否定した世の中があるなら、それは皆が皆「首から下の共通の目的」ではなく、「人間関係のための人間関係=感情的好悪」だけでつき合う世界ということになる。果たしてそんなものが良い世の中だろうか?
先日も書いたことだが、再び『昭和三十年代主義』(asin:434401491X)から引用する。

人が人を「必要」とする場合、そこに何らかの「人情」がなくては、協働体は円滑に動かず、必要もまた本当には満たされないでしょう。しかしです、逆に「必要」もないのに、ただ純粋に間の信頼だのが宙に浮いたごとくあるというのは、何ともみだらでだらしくなく、気持悪くはないでしょうか。「必要」という筋金が入ることで、しっかり引き締められた「感情」こそは、貧乏から解放されて久しい平成の世の我々が失ってしまった「昭和三十年代の人情」の正体ではないでしょうか。(p94)

確かに、軍隊や運動部など「首から下の共通の目的」の「必要」で結束した集団には、ときとして内部での厳しいいじめだのリンチだのの問題がよくある。
だか、じゃあ首から上の思想や理念などだけで結束した(つもりの)集団がうまくいくかというと、こっちはこっちで、案外と首から下の行動の齟齬ですぐ内ゲバにいたる場合だって少なくない。かつての新左翼セクトはそれで崩壊したし、左右を逆にしても新しい教科書をつくる会は同じ道をたどったではないか。

近代の理想は「総おばさん化」だったのか?

先日「世の専業主婦おばさんが感情的好悪で人を評価する噂話ばかりするのは生産労働の現場から切り離されてるからじゃないか説」というものを述べたが、ホモソーシャル的なものを一切否定する人は皆が専業主婦おばさんみたいになればよいと考えているのだろうか?
これは笑い話ではない。
まあ確かに、専業主婦に(女性同士の)ホモソーシャルは成立しにくいだろう(あえてありえるとすれば戦時中の愛国婦人会みたいな形か?)。考えようによっては、それが男のように、家庭を顧みない「仕事オタク」や「研究オタク」になったりしない、専業主婦おばさんの健全さ、とも言える(でも、おばさんには「社交オタク」はありえるか?)
ところで急いで付け加えるけれど、わたしは何度もおばさんと書いているが、別に「XX歳以上の女性」を何でもひとまとめにして差別したいのではない。
いうまでなく、専業主婦おばさんにも、家族のため家事にいそしみ、感情的好悪での他人の噂話で盛り上がるのをはしたないと考える人もいる。俺はとんと縁がないが、そういう女性は一切悪く思わない。逆に、男でも「ちゃんと働いてない・感情的好悪での他人の噂話ばかり」という奴はいるだろう。俺はとんと縁がないが、そういう男は軽蔑する。
かつて呉智英夫子も述べていたが、農家のおばさん、町の豆腐屋の女房、夫婦で診療所をやっている女医だとかは嫌な感じがしない。夫子はそれを「彼女たちは、生産点と生活点が一致し、生産点での緊張感を咀嚼しつつ生きている」からだと説く(史輝出版『封建主義者かくかく語りき』93ページ)。
こうの史代この世界の片隅に』(asin:4575941468)に登場する女性たちは、いっさい嫌な感じがしない。なぜかというと、まだ近代の過程ゆえ、家業を中心とした共同体の中で生きていたり、勤め人の家であっても、物資はない戦時中ゆえ一日中一生懸命働いているからだ。
断っておくがべつに戦時中を美化したいわけでない。そういう家業を中心とした共同体や一生懸命に働くおばちゃんの姿は、戦後も昭和30年代ごろまでは普通にあったはずである。
では、そういう、生産労働の現場から切り離され感情的好悪で人を評価する噂話ばかりする主婦というものはいつ生み出されたのだろうか?
これは結局、日本が戦後の産業発展を経て生産点と生活点の一致した「家業」がすたれ、総サラリーマン世帯化が進んだ結果としか言いようあるまい。
なんなら、学校、工場、軍隊などが人間を画一的な労働機械に変えたとするフーコーフィリップ・アリエスの近代批判を引き合いに出しても良い。
となると、近代有閑主婦の原形は、フランス革命後、安定した中産階級文化が定着したパリ第二帝政期に書かれたフローベールの『ボヴァリー夫人』なのかも知れんなぁw
そのように考えると、(本来は平等をめざしたはずの)近代産業社会がホモソーシャルを強化する一方で、そこから疎外された専業主婦おばさんを生み出したともいえるわけで、話はウロボロスの蛇のように因果が回りめぐってくるのであった。
――なんかBLと近代の話からとんでもないところに着地したな、まあいいか……。今回は知ったかぶりとヨタが半分なのであんま本気にすんなよ(←半分は本気のようだが)。